千島の開拓

1.江戸幕府の巡察隊の派遣

ラクスマンの来航などロシアの南下の動きに対して、幕府は、国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。

このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建て、この年の暮に江戸に帰任しました。

「大日本恵登呂府」の標柱

「大日本恵登呂府」の標柱

2.漁場・航路の開拓

翌1799年(寛政11年)から1800年(寛政12年)にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。

高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸(しんえつまる)」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。
また、幕府は、択捉島以南の島々に番所を設け、外国人の侵入を防ぐために役人を常駐させました。1801年(享和元年)からは、南部藩と津軽藩の兵、各100余名が守備に当たりました。