国境の画定

1.千島をめぐる争い

ロシアの南下政策が強められる一方で、幕府の警備が進められるにおよび、両国の間にはこの地方をめぐって争いや事件が起きるようになりました。

1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは部下に命じて樺太や択捉島等で日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。

これらの行為に対して、幕府は守備の立て直しを図り、ロシア船が近づいたら打ち払うことを命じました。1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。

ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは努力を続けましたが、交渉は難航しました。そのため、リコルドは報復として、折から国後島付近を航行中の日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。

捕らえられた高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走と斡旋によって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。
この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。

2.日ロ国境の確定

1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督に訓令を出し長崎に派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。プチャーチン提督はその年の11月下旬まで長崎に滞在しましたが、交渉はまとまらず、翌1854年(嘉永7年)に再び来航して交渉が行われましたが、それでも交渉はまとまりませんでした。

1855年(安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。

日本国魯西亜国通好条約(ロシア語)

日本国魯西亜国通好条約(ロシア語)

この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
しかし、樺太については、両国とも互いに主張をゆずらなかったため、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。