樺太千島交換

1.樺太での紛争

樺太千島交換

明治政府が誕生して新しい時代を迎えた1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は郡制の中に組み入れられました。

樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため、樺太を北上して漁場を拡張しつつあった日本人との間に紛争が絶えませんでした。ロシア人は確実に要所を狙って植民地を建設していくのに対して、日本は漁場の拡張に主眼を置いていたため、次第に圧迫されるようになりました。

2.千島樺太交換条約の締結

このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。

この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

3.得撫島から北の島々の開発

その後、内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫(うるっぷ)島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。

このことを心配した郡司成忠(ぐんじしげただ)は、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)を興しました。そして、占守(しゅむしゅ)島、捨子古丹(しゃすこたん)島、幌筵(ぱらむしる)島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。

しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。

酷寒の北千島

4.日露講和条約(ポーツマス講和条約)の調印

日露戦争は、1904年(明治37年)2月に始まり、翌年8月にアメリカのルーズヴェルト大統領の斡旋によってポーツマス講和会議が開かれるまで、18か月にわたって日本とロシアの間で戦われました。

1か月に及び交渉が行われた結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」調印、同年10月16日に批准され、11月25日にワシントンで批准書が交換されました。
この条約によって、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。