北方領土返還要求運動のはじまり

1.北方領土返還要求運動のはじまり

日本固有の領土である歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を再び私たちの手に取り戻そうという目的のもと、根室の地から返還要求の声が叫ばれ始めたのは、1945年(昭和20年)の秋頃からでした。

1945年(昭和20年)7月15日、根室はアメリカ軍の艦載機による攻撃を受け、市街地の8割を焼失し、被災者約11,000人を出す被害を受けました。
また、当時、北方領土の島々には約17,000人の日本人が住んでいましたが、ソ連の対日参戦に伴い、不安と恐怖のあまり次々に島を脱出し、安住の地を求めて根室へやってきました。

このような状況の中で、根室町長の安藤石典は、戦災者の救助のみならず、ソ連によって不法に占拠された北方領土からの引揚者の受入対策を全面的に取り上げ、援護の手を差し延べるとともに、北方領土返還運動推進の陣頭指揮を執りました。

北方四島からの島民の引き揚げ

北方四島からの島民の引き揚げ

2.北方領土の返還を求める陳情

1945年(昭和20年)11月1日、地理的にも歴史的にも北海道に附属する北方領土を米軍の保障占領下に置いて治安の回復を図ることを目的として、「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」結成の動きが根室町に起こり、安藤町長は、色丹島から脱出してきた小泉秀吉、川端元治根室漁業会会長、竹村孝太郎歯舞漁業会会長らの協力を得て、連合国への陳情計画を進めました。

そして、同年12月1日、安藤町長の名において、連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し、北方領土の返還を求める陳情を行いました。
この陳情の内容は、次のようなものでした。

歯舞群島は根室の一部であり、歯舞村の区域です。色丹、国後、択捉の島々は、日本の国土で、住民は三代から五代もつづいて住んでおり、明治8年の「樺太千島交換条約」によっても、これらの島々が、日本固有の領土であることは明らかです。

ソ連軍の武力占領により、家の中をかきまわされたり、お金や大切な物を取られたりしました。また、銃殺された人もあって、島の人々は恐ろしくなって根室へ逃げてきた人もいます。択捉島は遠いので島の様子はまったくわからず、大変心配しています。

島の産業、経済、人情、風俗などは、北海道とまったく同じ、親子の関係で、これらの島々は、北海道に付属する島々です。
北海道と同じこれらの島々を、アメリカ軍の保障占領下に置いて、島の住民の不安と恐怖を取り除き、安心して生業につけるようにしてください。

これが北方領土返還要求に関する陳情の第1号となりました。北方領土返還要求運動の原点はここにあり、これらの行動が北方領土返還要求運動の始まりとされています。

マッカーサー元帥に宛てた陳情書

マッカーサー元帥に宛てた陳情書

3.広がる北方領土返還要求の声

北方領土に隣接する根室で起こった北方領土返還要求の声は、やがて北海道全域に広がり、さらに全国各地に広がっていきました。

1947年(昭和22年)7月22日、北海道議会は、北海道の一部を構成していた北方領土の返還を求める道民世論を受けて、「歯舞諸島及び択捉島並びに国後島の日本領土復帰に関する請願」を決議し、マッカーサー元帥に懇請しました。この決議が、全国の都道府県議会及び市町村議会における決議の第1号となりました。

1948年(昭和23年)3月5日には、北海道に次いで北方領土の元島民が多く居住していた富山県において、北海道外における最初の返還要求運動団体が結成されました。
また、北海道内における返還要求運動の高まりに呼応するように、1950年(昭和25年)に山梨県、長野県、鳥取県の各県議会において「歯舞諸島及び千島列島返還懇請について」の決議が行われ、その後も次々と各都道府県議会において同様の決議が行われました。