元島民 – 佐々木 篤郎 – が語る「北方領土」

国後島出身

八月十五日終戦、それから間もなく、ソ連軍が進駐してくるという噂が部落内に広がりました。この時、私は十一才でした。九月二日と記憶していますが、ちょうどお昼頃、ソ連の上陸用舟艇が砂浜めがけて入ってきました。子供だった私は、吃驚仰天しました。舟艇からは、ソ連兵が銃を肩に背負って足早に降りてきました。何をするのかと、私はじっとその動きを見守っているだけでした。

当時の若い女性達は、いち早く、山奥の防空壕に隠れたそうです。私の家では、姉が三人もいました。兄と二人で、母の手づくりのおにぎりと、焼き魚を紙にくるんで、ソ連兵に見つからないように、生い茂る草むらを這うように防空壕まで弁当を運んだものでした。姉達は何日かしてから、父の話で、ソ連兵は決して女性にはいたずらしないという事を聞かされて、安心し防空壕から恐る恐る戻って来たんです。母はその間ずっと家の中におりましたが、ソ連兵が恐ろしかったのか顔に墨を塗って兵隊達から逃れようとしたらしく、後にその事を兵隊達から笑われたという話も聞きました

私達の住んでいた乳呑路は、留夜別村の中心部ですから、役場がありました。ソ連軍が進駐するという事をどこで耳にしたのか、村長一家は一足先に根室へ逃げたらしく不在だったので、ソ連軍の隊長からはこの部落には村長がいないのかと問われ、止むなく当時私の父が漁業組合長だったので、軍の命令で、引き揚げるまで村長を命ぜられたそうです。それからは、毎日のように恐ろしそうな目つきのソ連兵を道路で見かけました。乳呑路には約二十名ほど警備隊員がいたようです。
日を追う毎に馴れてきたのか、ソ連兵も笑顔を見せるようになって家にも遊びに来ました。「いい人たちなんだなあ」、とこの時思いました。

国後島の最東端、白糖泊という所には戦前日本軍の松野大隊がおりましたので、ソ連兵も殆どそちらに多く駐留したらしいのです。乳呑路には高安中隊がいましたが、ソ連軍が来る事を知ってか、急にいなくなりました。
その後、二十一年三月頃と思いますが、ソ連の民間人が入ってきました。確か、開拓団の人達だったのでしょう。二百人もの人が住むようになりました。

ソ連人は、木材の切り出し、木工場労務、それに漁業者が多く、日本人のする事をよく真似しようとしていました。また、仲良くしたいといいました。仕事は、日本人とソ連人とに分かれて頑張りました。食事なども日本のお米や味噌、醤油で味つけしたものを残さず食べていました。

また子供達は、ソ連の子供達と同じ学校で勉強をしました。但し教室は別々でした。ソ連の子供達は五十人もいたでしょうか。よく一緒に遊びました。川へ行っては魚つり、海へ行っては泳いだり、それに馬に乗って遊びました。ソ連の女性達は、日本人に畑のつくり方など教えてもらっていました。男性は、大木切り倒し、材木の製材作業や魚の獲り方等を一生懸命習おうとしていたようです。

やがて、翌二十二年十月、第一回目の引き揚げ命令が出ました。すると、ソ連の貨物船(一万トン級)が客船に早がわりし、乳呑路に住む人達を運ぶというのです。日本へ帰れるという喜びは確かでしたが、住みなれたこの土地を去るという事がどんなに口惜しかったかわかりません。

二度とこの故郷へは帰ってこれないのかと思った途端、涙がとまりませんでした。小さかった私でさえも大きな声でワンワンと泣き叫んだことが思い出されて、今は恥ずかしくさえ思います。
ハシケから、ロシアの客船に乗り移るにも、大きな綱のモッコに入れられて、空中では揺れ動き、大人でさえも死にものぐるいでした。一生涯私の心の中で、あの時の思いは拭いきれないものがあります。

一路船は国後水道を通り、樺太の真岡へ上陸。三ヶ月近くも経って漸く、本土函館への上陸が果たせました。以後私は、縁故関係から、父の兄を慕って根室に落ちつき、兄と二人で昆布の生産に力を入れ生計を保って、歯舞漁協入社、三十年の職務を終え、今は子供達も夫々独立しましたので、妻と二人で余生を送っている今日この頃です。