元島民 – 隅田 サキ – が語る「北方領土」

歯舞群島(水晶島)出身

私が生まれ育った歯舞群島の水晶島は、納沙布岬からわずか七キロの距離です。海霧が深く立ちこめる夕暮には、ノサップ灯台の霧笛が聞こえるほどでした。冬は四方を氷に閉ざされてしまうのですが、早春には福寿草や雪割小桜が咲き、夏はエゾカンゾウの金色が風に揺れ、鈴蘭やわたすげの白が草原を彩っておりました。アヤメが紫のジユータンを敷きつめたように咲き、白い砂丘には深紅のはまなすが実を結ぶ絵の様な楽園でした。

その美しい自然の中で育った私ですが、昆布干しや、覆いのむしろ掛けなどの仕事を手伝わされ、小さい頃から遊ぶ暇などは全くありませんでした。
私が通った水晶尋常高等小学校は校長先生がたった一人だけで、勉強を教える傍ら、みずから学校で飼っていた馬の草刈りやら、鶏の餌の小魚採りをしておりました。
歯舞群島の中で最初に青年団が結成されたのも水晶島でした。冬期間には、男性は剣道や弁論大会等の活動をし、女性は校長先生の奥さんから、裁縫を習い、花嫁修業をしたものです。

冬になると海は閉ざされてしまうので、定期船は島をグルグルと回り、氷の割れ目を見付けて税庫に船を着けます。税庫とは昆布の積み出し港で、当時は上海との買易をしていたので、採った昆布の保管に使った大きな倉庫があった場所だったということです。私が物心ついた時にはすでになく、地名だけが残り、そこには神社、郵便局、学校、寺等が建っておりました。

島の名士といえば、校長、局長、警察官などですが、水産検査員も名士の仲間入りをしておりました。それは水産物の等級をつけたり、出荷制限の権限を持っていた関係で優遇され、名士と並んで、結婚式、葬式では上席に座していたのです。

夫は長男が生まれて直ぐ召集を受け、一時帰還後、又々召集されました。南方では台湾、フィリピンを転々とさせられ、その後行方がわからなくなり心配したのですが、広報でラバウルで健在だと知りました。私は残された二人の男児と夫の両親の許で昆布採りをして生計を立てておりました。

当時、島でラジオがあるのはたった二軒でした。姑の持っていたラジオは炭素棒のバッテリー式のもので、島では電池が入手出来ないのでニュースだけ聞くのに使われておりました。
昭和二十年八月十五日は島の人達が大勢、家に集まって、雑音混じりの玉音放送を聞きました。よく聞きとれないので、代表が直接根室へ出向き、初めて敗戦を知らされました。
騒然となった島では様々のデマが乱れとびましたが初めてソ連兵を見たのは、終戦から半月後の九月三日でした。

朝、目覚めると、目の前の海に軍艦が入り、甲板にはソ連兵が並列していたのです。上陸の伝令が流れ、私は義父と幼い子にリュックを背負わせ逃げました。我が家のエンジン付の船は主人がいないので動かすことも叶わず、仕方なく七軒共同の機械船で脱出を企てました。

ソ連兵が一時去った隙を狙ってその夜、島から逃げ出しました。
ところが、安住の地になる筈の根室へ来てみると、一ヵ月前の空襲で街の大半が焼野原と化し、住む家も、食べるものもありません。

私は島に置き去りにした米や芋を取りに戻ることを考えつきました。それには決死の覚悟が必要でした。義父母は危険だからと猛反対をしましたが、家族に腹一杯食べさせてやりたい、冬に備えて暖かい衣服を着せてやりたい一心で、水晶島へ密航する計画を実行しました。

根室と島との狭い海域にはソ連の軍艦が往来しているので暗闇を利用して夜中に上陸しました。慣れた道とはいえ、家までの六キロの夜道を女一人で歩く恐ろしさは、忘れることが出来ません。
家に着き、風呂敷や行李に食糧や衣類を詰め込み、それを浜まで運び、夜中に岸へ着く迎えの船に積みこみました。
火事場の馬鹿力とよくいいますが、根室へ無事着いてからその荷物を運ぼうとしても、とても女手では持てないものです。思い出してみるとおかしくなるほどのあの力は、どこから出てきたものだったのでしょう。

島へ食糧をとりに戻った時、昼間は家に潜んでいるのですが、一度などは本家の祖父(逃げ遅れて島に残り、ソ連に登録された)が、ソ連兵が見廻りに来たと教えてくれたので、天井の梁の上に、息を殺して伏せておりました。カツカツという軍靴の音が遠のいても、恐ろしさで暫くの間、身動きも出来ませんでした。恐怖の体験を重ねる中にも根室と島との往復を続けました。

四回目の時ですが、家で飼っていた馬が私の姿を見付け、仔馬を連れてすり寄ってきたのです。馬が家の周りをウロウロすると人の気配を感じられると思い、追い払おうとしたのですが、よく見ると悲しそうに目から涙がこぼれているのです。

その頃島では、馬さえ殺して食べたと聞き、別れることが出来ず、連れ帰ることにしたのです。馬が暴れたら船は沈没すると、頑強に断り続ける船頭を拝み倒し、乗船させてもらいました。当時、貴重品だった石油缶との交換条件でした。
危険を犯して運んだ馬も、放牧させる草もない根室では飼うことも出来ず、四頭で壱千円という値で釧路へ売られていきました。

あれから五十年、筆述し難い数々の辛酸を舐めてきました。その間二十三年にラバウルから帰還した夫は、拿捕の危険に身を曝しながらも、ソ連領の貝殻島で昆布の採取を続け、家計を支えてきました。
恵まれた五人の子供もそれぞれに海に関わって生きており、故障した四男の船がソ連海域に入ったり、孫が拿捕、抑留されたりと、苦い体験をしながら歯を喰いしばっての毎日でした。

島から脱出の時、凪まで待てずに無理に船を出し、沈んだ船が沢山ありました。船から流れた死体がまるで魚のように浜に打ちあげられていた海です。
北方の海はソ連との闘いの海です。生活の糧とした厳しい海に、平和が甦る日が一日も早からんことを祈ってやみません。