元島民 – 笠井 文子 – が語る「北方領土」

歯舞群島(勇留島)出身

むし暑い夏の昭和二十年八月十五日、みんな学校に集合するようにとの連絡があり、そこで終戦を知らされ日本は戦争に負けたのだと直感。皆で泣いて家へ帰ったのを覚えている。その悲しみも大きく、二人の兄も戦争に行き両親と三人、心痛の日々でした。その憎しみも消えぬ間の半月程たった、九月三日のソ連軍の侵入は、一生忘れることはできない。

私が住んでいた勇留島小池浜という所は、近所といえば十軒程で、すぐ向かいに日本軍の兵舎があり、一小隊二十七人とかで、八月三日の早朝、一人の兵隊が来て、軍の命令で白い旗を揚げるため白布地をほしいといって持っていき、心配そうに帰る姿が印象に残っています。そして間もなく海の彼方に山の様な大きな軍艦、上陸舟艇とかが見る見るうちに浜辺に乗り上げられた。そして、兵舎の前に横づけになり、その日の夕暮れ近く、隊長以下全員一人一人が銃を背中に突きつけられ軍艦に乗せられる姿を見えなくなるまで、ただ唖然として始めから終わりまで、両親に叱られながら窓から覗いていました。

兵舎の前も浜辺も静まり、ソ連兵もいなくなったと思い安心していたら、五人ほどソ連の兵隊が残り、土足で家の中に入り、どうしていいのか恐ろしくてふるえたものです。隣の清水の父さんが来て「頭を下げて謝る様にするんだ」というのだけれど、それもできず、悲しくて泣いてばかりいた。

近くの山に逃げたり、隠れたり、三日ほど続き、そんな怖い中で、千葉の軍隊にいた兄が根室と島通いのカネゲン丸にて、ようやくの思いで島へ復員しました。
ほっとして間もなく、ソ連のいない隙を見て、娘だけでも根室に逃がさなければと親は考えた。九月八日、早朝、近所の昆布船にお願いし、私と友人一人と船長の三人で脱出したのです。

その日は朝やけの美しい、波の静かな日で、四日間ほどの怖かったことが嘘のようでしたが、両親や兄とも別れ、また生まれ故郷の勇留島も見ることもないと思い、涙、涙で、税庫前の岬も小池浜もかすんで見えたのを覚えている。
島に生活してた頃は苦労もなく、楽しい事が多く、思い出は夢の中に生き続けています。領土返還も半世紀たった今、ますます遠くなってしまった様な気がします。

笠井文子 昭和三年生まれ
終戦時 十七歳
昭和二十年九月八日勇留島脱出