元島民 – 河田 ハツ – が語る「北方領土」

歯舞群島(多楽島)出身

昭和二十年九月二日、その日は秋晴れのとても良い天気でした。
夫(竹次郎)と義父(宗四郎)は、何時ものように昆布漁の仕事をしておりました。
私は近くの井戸に水汲みに行き、天秤棒をかついで家に戻る途中でした。背の高いソ連兵が五、六人歩いて来るのが見えたんです。慌てて手桶を放り出して家に帰って隠れました。

その内に二、三人の兵隊が土足で入って来て、銃で天井を突きながら「兵隊を匿っていないか、鉄砲を隠していないか」等と言いながら家の中を捜し始めました。
まさか、ソ連軍が上陸して来るとは夢にも思っていなかったので、それはびっくり仰天でした。腕時計を取られた所もありましたが、私の所では、バリカンやカミソリを持っていかれました。

ソ連軍は島の中心部の古別に進駐して無線局、学校、お寺等、公共物を全部占拠してしまい、頼りにしていた日本の兵隊さんたちは、シベリアの方へ連行されたようでした。まだ漁の時期でしたので、イカ釣りなどで舟を出すと発砲されるし、根室との通信も出来なくなり、ただ飛び交うのは不安なデマばかりでした。

女子供は外にも出られず、次第に不安が募るようになりました。そのうちに島民は夜陰に紛れて、今日も一戸、明日は二戸というように脱出が始まり、最後まで残ったのは、私達家族六人と綱谷家五人の十一人になってしまいました。

ソ連軍に占拠された学校などの公共物は、すっかり荒らされ、特にお寺などは数百柱の遺骨がばらばらに散乱していて、とても正気で見ることが出来ない有様でしたので、夫が早くから遺骨の整理をさせてくれるようにソ連軍に交渉しておりましたが、なかなか許可が出ませんでした。
それでも、何回も何回も根気よく交渉した結果、昭和二十二年九月四日の夕方になって、漸く念願の許可が出たのです。

翌、九月五日は朝から良い天気でした。夫と義父はお寺の境内に大きな穴を掘って、新しい四斗樽とりんご箱二個に遺骨を納め、骨箱に入った百八十六柱の遺骨と共に埋葬することができました。あの時、許可が出なければ今頃はどの様に成っていたかと思うと本当に良かったと思います。

その翌日、昭和二十二年九月六日は朝から曇り空で、時折冷たい雨が降っていまた。この日も志発島から馬の運搬に船が来ていました。
午後四時頃です、突然、ソ連軍から私達に帰国命令(強制送還)が出たんです。「明日、志発島に引き揚げ船が来るから馬を降ろし、一時間以内に身仕度をしてこの船で志発島へ行け。もし遅れると一生、北海道には帰れない」と言われ、大急ぎで身仕度をして船に乗りましたが、三十余年間も住み慣れた思い出多い故郷の島を離れるということはとても辛いことでした。
それでも、やっと学校に行くために先に引き揚げていた子供達(長男と次男)に会えると思うと、悲しみと喜びが入り交じり、とても複雑な気持ちでした。

いよいよ出港という時です、何時も仲良くしていたイワン隊長の妻、ジョーヤさんが見送りに来てくれました。ボロボロ大きな涙を流しながら、「ダズヴィダーニヤ(さようなら)」、「ダズヴィダーニヤ」といって、私も船上から「ダズヴィダーニヤ」と言って別れを告げました。ジョーヤはとても親切で、ロシア料理の作り方や、ロシア語などを丁寧に教えてくれました。お陰で、聞いて話せるだけでなく、多少の読み書きも出来るようになりました。
私も日本料理の作り方などを教えてあげました。
彼女は何時までも手を振っていました。
私達も島影が見えなくなるまで甲板に立っていました。

配船の手違いから、志発島に船が来たのは十月十四日と思いました。
色丹や国後、択捉島の人達が先に乗っていて、船倉は一杯で入ることができず、甲板に座っていましたが、次第に波も荒くなり頭から波飛沫をかぶるようになったので、仕方なく、ぎゅうぎゅう詰めの船倉の中に入りました。

数時間後には根室に着くものと思っていましたが、着いた所が樺太の真岡港(ホルムスク)でした。
真夜中の星空が冷たく淋しく光っていました。
先に来た人達が、まだ沢山いて収容する所が無かったのか、なかなか上陸することができず、港を出たり入ったりしながら、トイレも付いていない貨物船の船倉の中に一週間位も詰め込まれていました。

樺太では、かつての女学校に収容されましたが、座って漸く入れる位の高さに四段階にして、一坪位に仕切った所の二階に七人も入れられ、横になることもできない中で、日本の引き揚げ船が来るのを待ちました。
はしごも無く、筵を敷いただけの所で、空腹と寒さを凌ぐのに大変でした。船での食事は黒パン一切れ位のものでしたが、樺太の収容所では、黒パン一切れと大豆の入ったスープに時々ニシンの塩づけ(生)が出ましたが、ご飯ものは食べることができませんでした。
水を貰うのにも大人から子供まで長い行列を作りました。

漸く日本の引き揚げ船に引き取られて、途中、海馬島を見てて函館港に着いたのが十一月二十三日だったと記憶しています。
裸一貫、着の身着のままとは、正にあの時の事で、見るも哀れな姿でした。上陸するとDDTをかけられて全身は真っ白になり、逃げ場をなくしたシラミが物凄いものでした。
函館に一泊、それから四日程、臨時列車にゆられて根室まで。ようやく先に引き揚げていた長男と次男に再会することができました。

我が家を出てから三ヵ月近い長い旅路でした。食べる物も無く、着る物も無く、飢えと寒さに誰もが栄養失調になって歩くのもやっとでした。樺太まで来ていながら、随分と多くの老人や子供が日本の土を踏むことなく亡くなっていきました。
今思い出しても涙が出て止まりません。

時に我が家は、義父六十一才、夫三十七才、長女八才、次女五才、三男三才、私は三十三才で一家六人が、よくも無事に日本の土を踏めたものと思っています。長男は十三才に次男は十一才になっていました。
日本の引き揚げ船で食べた「お粥」と函館で父さんが買ってきた「イカ飯」の美味しかったこと、今も忘れられません。

早く島を返して欲しいと叫びながら五十年が過ぎました。
今は亡き夫もまた北方領土返還運動には情熱を持っていました。いろいろな行事にも、よく参加していました。昭和五十四年には全国の同志二五〇人と共にアメリカのニューヨークやワシントンに、昭和五十八年には有志十二人と中国にまででかけ、北方領土の返還を訴えていましたが、その時一緒だった早川豊夫さんは健在ですが、かけがえのない指導者箭浪光雄さんも今年、志半ばで他界されたことは誠に残念です。

私も平成四年八月に四十五年振りに北方領土墓参に参加して、多楽島に行き、夫が埋葬してきた遺骨の場所も確認してきましたが、昔の家は一つもなく、浜も随分変わっていました。
海辺に落ちている小石の一つひとつがあんなに懐かしく思ったことはありませんでした。
元気なうちに、もう一度帰りたいものだと思いながら島を後にしました。