元島民 – 鈴木 寛和 – が語る「北方領土」

歯舞群島(勇留島)出身

択捉、国後、色丹島及び歯舞群島からなる北方四島は、我々が父祖伝来の地として受け継いできたもので、いまだかつて一度も日本国以外の領土となったことがないわが国、固有の領土である。

五十年過ぎた今日、日本国の領土である北方四島にはロシア人だけが住んでいる。なぜ…当時のソ連邦によって不法占拠され多くの島民が強制的に島を追い出され、一九四五年から一九四八年の三ヵ年の間に一人の日本人も残す事なく、日本人の居住していた痕跡をも残さぬよう破壊したのである。後に行なわれた墓参でも墓の多くが破壊され、現在に至っても墓の所在が判明しないものも多い。

私が居住していた勇留島・税庫前は色丹島の穴潤湾に良く似た天然の港になっている。時化になると志発島・水晶島の船舶が避難のため多く利用していた。島民五百名余りが居住しており、ほとんどが越冬組である。沿岸漁業を中心に機船漁業も多く、当時五トンから十五・六トンの動力船も二十隻近く、沖合漁業も発達しており、現在の漁場技術発展の基礎をなすものも少なくない。

ソ連軍が占拠して以来、夜間外出はもちろん、昼間の島内の通行についても、大きなスタンプを押した通行証がなければ何処にも行く事の出来ない制約を受けた。

一九四五年十一月下旬、復員軍人を戦犯と称し連行するような行動があった。私の島にもソ連軍高級将校(ゲベユウ)五、六名が参り、「佐藤という日本兵がいるだろう、戦犯として連行する」との事。当時島の代表をしておりました父と、島民の数名が聞かれ、佐藤という名の人はいたが兵隊ではない。加藤という名の復員軍人はおりました、しかしその人はソ連軍が島に来る以前に北海道に引き揚げて今は島にはいないと、時間にして二時間余り押し問答した結果、彼等も理解したかどうかは判らぬまま、その場を去った。再度、ソ連軍が調べに来る事は予測出来た。本人は在島していたのである。どこかの日本人側に情報を聞いての調査である事は窺えた。直ちに本人を島から脱出させる事に成功し、事無きを得た。

その後、間もなく志発島、西前にあるソ連軍本部から五・六名の将兵と民間人一人が来島、島民の男女若者二十名程をコンビナート工員として連れて行くとの事に島内は大騒ぎとなった。ソ連軍の勝手にはさせられぬと相談の結果、二十名程を志発島、色丹島に派遣する事としたのである。大変な決断である。

十二月初旬に大きな事件が起きた。ソ連軍内に酒類の不足を生じ、日本人を使い、米二十俵(千二百キロ)を小型船に積み込ませ北海道に密航させ、その米を売ったお金で酒を買って帰れとの命令を受け、四日間かけ根室からドラム缶入り、メチールアルコール二本を持ち帰った。その夜、将校六名でさっそく試飲会をやったようである。やがて一時間余り時間が経過後、その場で四名の将校が急性アルコール中毒死をした。志発島に医師はおらず、生き残った二名を国後島泊村にあるソ連軍司令付き病院に移送するため父に「早急に船を出して泊村の病院に行ってくれ」との連絡である。十一月、十二月中旬頃までは島も夜明けは遅い。まっ暗な午前二時、志発島に向け出航、父の外三名が乗組んだ。志発島西前に到着後、直ちに二名を船内に収容、国後島泊村に向け急行したが、到着寸前で船内で一名が死亡したのである。生き残った一名は志発島駐屯部隊の隊長(マレンコフ)であった。後に話として聞いたところによると、一兵卒に降格後に、シベリアに送られたと聞かされました。

十二月初旬国防軍と入れ替わりに国境警備隊が配属され、監視体制は一段と厳しく、「あなた達はソ連国籍となり財産は総て国のものとなります。」と言い渡された。時すでに遅く、その時点の脱出は不可能であった。監視が厳しい上に時期も悪く時化が長期化する、危険この上もない最悪の条件である。

何としても島を脱出しなければならないとの考えから、島内において脱出計画が進められた。流氷の時期を避け闇夜を狙うという事である。その条件を満たすのは年明け四月二十日が適当と判断された。強制労働に連行された者たちの協議もされたが、残して行くより方法がない、との結論に達したのである。
島民四百三十名余りを一挙に脱出させるためには船の数がどうしても十隻は足りない。連絡要員として私の叔父二人が島を脱出し、その連絡と手配をする事となった。

やがて約束された四月二十日が来た。一隻の船に何家族も乗船させ、午前二時一斉に島を離れたのである。通常根室港までの所要時間三時間余りのところ、六時間から七時間を要した。小さな磯船一隻、二隻を曳航しての脱出である。引き上げ後二・三年が過ぎ、ソ連軍に連行された若者二十数名、うち十五・六名が樺太経由で送還されて来た。しかし四名(男子一名女子三名)が未帰還となった。佐藤重夫、石黒タカ、七条光子、太田京子の四名は色丹島穴潤にて就労中死亡し、菊地千恵子さんは、一九四八年八月に樺太経由で帰国したものの、三ヶ月後に死亡したのである。重労働による過労と栄養不足により結核の発病が原因とされている。

この大問題を父は北海道庁に補償要請をしたのである。昭和三十二年七月に北海道庁厚生部から一係官が来根。当時の梅谷会館にて事情聴取がされた。来根の際係官は次のように述べている。”現在我が国とソ連邦との間に国交が全くない。したがって、この件についてはソ連側が補償すべき問題であり、今はどうする事も出来ない。政府とも協議の上、改めて回答したい” といい残している。現在まで何等の回答もなく、未解決のままである。

遺族は今日に至っても、死に損なのか、怒りと思いの心情を訴えている。
大きな犠牲の上に五十年過ぎた今日、領土問題は一向に進展していない。我ら島民にとっては、北方領土返還なくして戦後は終らない。