元島民 – 若松 富子 – が語る「北方領土」

歯舞群島(志発島)出身

今も瞼の内に焼きついている、あの島での楽しい、のどかな生活。あれから五十年。十六歳の少女だった私も、昨年から年金を頂く年になってしまいました。
島へ帰る日を夢見て、最後まで希望を捨てきれずに死んで行った両親や兄の事を思うと胸が痛みます。私にとっても、五十年の年月は、短いものではありませんでした。

島から引き揚げて以来、住む家も、仕事のための漁具も無く、身体一つで父や兄が何とか漁師を続けておりました。細々と漁を続ける内、父と兄達がソ連に拿捕されて、十ヶ月程の抑留。チョロマでの待遇はひどいもので、極端な食糧不足と不衛生で帰された時は三人共、即入院で、重体のため担架で運ばれた父は、釧路の日赤病院へ入院、身内の手厚い看護で、一時は良くなり退院したのですが、一年後には亡くなってしまいました。母は兄達の再度の拿捕を怖れて、どんなに貧乏してもいいから、漁師をやめてほしいと、兄達に懇願し、三代続いた漁業を廃業しました。
漁師以外の仕事をした事のない兄達が、中年になってからの転業ですから、一家の苦労は筆舌につくしがたく、思い出す度に今でも涙が出ます。

今、若い三世や四世の人達が、島の返還に関心が薄いと言われます。私達のように現実の苦しみを体験していない人達には、仕方のない事かも知れません。だから今、私達一世、二世で、生きている人達に私達の島返還の願いを引継いで行って頂きたいのです。

何も無かった草ぼうぼうの島へ渡り、自分達で家を建て、浜を干場に造りあげ、やっと平和な生活が出来るようになっていたのに、突然、全財産を置いて島を出なければならなかったのです。どんなにか口惜しかったでしょう。現在の自分の身に起った事として考えてみて下さい。
日本の敗戦により、一時は隣組が集まり、手榴弾による集団自決も話し合われたのですが、軍の方から慰留され、何とか自決の方は思い止まったものの、仕事にも身が入らず、空虚な毎日を送って居りました。

悪夢のあの日は、秋晴れの良いお天気でした。午後三時近くだったでしょうか、軍隊の炊事班で副食の魚を買うために毎日顔を見せていた瀬古上等兵さんが、いつになく険しい顔で「ソ連の軍艦が来たぞ」と叫んで走り去りました。私は驚いて外へ飛び出しました。海を見渡す間もなく、眼前にエンジン音も無く (当時島を往来している船は、どれも大きな発動機の音を響かせていました)、ニュース映画で見た通りの鼠色の軍艦が通りすぎるところでした。

軍艦の後尾には真赤な赤い旗が風にはためいています。私は身体が震え、呆然と立ちつくしておりました。まもなく、陽が落ちて夜になりましたが、島の人達は、これからどうなるのだろうという不安で、誰もが眠れぬ夜を明かしました。
翌日の午後、「日本軍の兵隊さん達は全員武装解除されて、丸腰となり、ソ連の船で何処かへ連れて行かれた。」と言うニュースが人から人へ伝わり、島民の動揺は一層深くなりました。

何しろ島民の何倍かの兵隊さんが自分達を守ってくれている、と信じて心強かったのに、もう自分達を守ってくれる人はおらず、島には老人と女、子供ばかり、若い男性は、ほとんど兵隊に行って、まだ復員しておりません。「この島はソ連に占領されたのだ。」、「ソ連の兵隊が土足で家に入って来て、女はどうした。」と言ったとか、ボロボロの軍服を着たソ連兵が畑の人参を抜いて、むさぼり喰ったとか、色々の噂が流れ、西捕の方の女性は皆,山の中に隠れているという事でした。私の家には、根室の空襲で焼け出された、親戚の母子家庭の親子二組と、陸回りと言われる若い娘さんが四人も居りまして、男は病身の父一人です。父母の、心配はひとしおでした。隠れようにも近くには山どころか、草むらさえありません。

砂を噛むような夕食をしていた時でした。近くの西村さんの帳場さんが訪ねて来られました。「ソ連の国に住んでいる事は出来ない。根室へ脱出したいが、船の舵を取ってもらえないだろうか。」と言うお話です。大勢の女、子供をどうしようかと、困っていた父は、二つ返事でお引受けしました。

西村さんは大きな漁師ですが、戦争が激しくなって働き手もいなくなり、漁場は戦場となって近海以外での操業は無理なので、大きな船は沖に停泊したまま、番屋には留守番の帳場さん一家が住んでいました。
私の父は島に渡るまでは船頭をしていて、「根室近海なら眼をつぶっていても航海出来る。」と自慢でしたので、西村さんに白羽の矢が立ったのです。
荷物は一つと決められ、風呂敷包み一つ持って、沖に停泊している大きい方の船に、私達は一番に乗り込みました。

最初は身内とごく近所の人達だけと思っての脱出行だったのですが、島の人達は皆、夜になっても眠れず、隣近所の様子を伺っていたようで、私達の脱出行は、アッという間に北浦、相泊へと伝わり、次々と小船でやって来て、船はまたたく間に満船になってしまいました。

ところが、いくら待っても船のエンジンの音がしません。「機械が故障したらしい」と言う話です。長い間、使わず沖に停泊していたため、機械が故障していたらしいのです。
その内にも、どんどん島の人達が小船でやって来ます。「これ以上は無理だ。」と誰かが、船の上から叫んでいます。「何を言うんだ。俺達を見捨てて行くのか、それなら、沖のソ連の軍艦の所へ行って、お前達が逃げると、教えてくるぞ。」喧嘩も始まり、次々と乗り込んできます。

船の廻りには、まだ小船が十艘以上も待っています。その内に雨まで降り出しました。中に入れない人が大半で、皆ズブ濡れです。船の機械はとうとう直らず、仕方がないので、もう一艘の小さい方の船のエンジンをかけてみたようです。こちらの方は間も無くかかったようです。ところが小さい方の船だと、半分以上の人が余ってしまうのです。操舵室で父も困っていたと思います。
どの位、待ったでしょうか。その内に小船は一艘も無くなり、叫び声も聞こえません。小さい方の船にも人がびっしり乗っています。

大きい船の私達はどうなるのかと、ドキドキしてきました。ところが間も無く、遠慮がちなエンジン音がポツリポツリと聞こえ、私達の船も動いているようです。二、三時間もそんな状態だったでしょうか。その内に、耳なれた発動機本来の力強いエンジンの音が響き、船足も大分早くなってきました。
根室に着いたのは、翌日のお昼頃だったと思います。初めての集団脱出という事で、報道関係の人達が大勢、取材に見えていました。

後で父から聞いたのですが、小さい方の船で、大きい方の船を曳航する方法で、希望者全員を乗船させたのだそうです。しかも、沖に赤い灯の見えるソ連の軍艦に気づかれないように、エンジン音の届かぬ所まで、潮流に乗って船を流し、大きく遠回りをして根室に向ったとの事でした。父の判断が良かったと言う事で、あの時は父がとても立派に感じられました。

十三時間もかかっての脱出でしたが、無事に日本に帰って来られたという安堵に、皆で手を取り合って喜び合いました。
でも私達は、あれが島との永久の別れだとは、誰も思ってはおりませんでした。いずれはまた、平和な島へ戻る事が出来るものと信じていたのです。

私達はこうして何とか無事に脱出出来ましたが、其の後の脱出者の中には、小さな昆布採りの船で、一家族ずつが手漕ぎや帆を立てて脱出をはかり、根室の港に入る寸前に高波で船が転覆し、全員が死亡した方々もあります。行李や布団が牧の内の方の浜辺に沢山流れついたと聞いています。

あれから五十年、一世の方々の大半がこの世を去りました。納沙布岬に燃える祈りの灯は、無念の思いで死んでいった人達の魂の灯です。北方四島は、日本の国にとっても大切な宝の島です。カイロ宣言にも明記されているように、戦勝国の領土拡張は否定されているはずです。
これからも、屈する事なく、国際世論に訴えながら返還運動を続けて行かなくてはなりませんし、若い方々にも、引き揚げ者の血の叫びとも言えるこの願いを、引継いで頂くようにお願い致します。