元島民 – 西田 貞夫 – が語る「北方領土」

色丹島出身

故郷からの引き揚げ時の様子の原稿依頼を受け、何からどの様に書こうか……随分悩みました。今から半世紀も前の十才から十二才迄の僅か二年間の事ですが、私の六十年の人生の中でこんな悲惨な出来事は、思い出したくありませんでした。

昭和二十二年、この頃日本人島民は半数近くの人が島を脱出し、残った日本人島民は、ロシア軍人家族や、工場で働くロシア人達、日本人には厳しいロシア軍の規制を受けながらも、お互いの片言の言葉でコミュニケーションがとれる様になって来た頃です。勉強もせず、ロシアの子供とも遊んで楽しい日もありました。

二十二年七月、夏休みの頃から色丹島の日本人住民は、斜古丹に集結されました。隣り近所、空家や倉庫に譲り合いながらの生活が始まり、各部落からの子供達と楽しく遊びました。その頃から日本人島民の引き揚げの話が聞かれる様になりました。親しくしていたロシア人何人かが「島に残ってロシア人と一緒に暮そう、日本は戦争に負けて根室も空襲を受け日本に行っても生活が大変だと思われる。」

この頃、日本との連絡が全くとれず、この先の生活が不安で家族全員が引き揚げを決意しました。何せ、我家は兄弟姉妹が十人、両親、祖母の十三人の引き揚げの準備が大変でした。何時、引き揚げの通達があるか判らず、持ち出せる荷物はどの位なのかも判らず…、噂では一人が五貫目(約二十キロ)、お金の持出しも制約があると聞かされ、家族の者は毎日夜遅くまで準備におわれました。各人のリュックサックやカバンを作り、その中にお金をかくしたり、見つかれば困ると、出してみたり、リュックにかくしたお金にミシンの跡がついていたり、ブリキで作った弁当箱や筆入れの中に入れたお金に焼き跡がついたり…。ロシアでは紙幣を粗末にしてミシンの跡や焼跡がついていると引き揚げに影響を及ばす、との噂を聞いては、そのお金を焼き捨ててしまいました。島には銀行がなく、郵便局はありましたが、終戦近くになって根室との往来も少なくなり、お金は全部手元に置いてありました。

私の家は商家で、旅館、料理屋、漁業等もしていたため、生活には恵まれておりました。ロシア人が進駐してからは商品や食器類をロシアの命令により、ロシア人に分けてあげたので、ロシアのお金も沢山ありました。それと何と云っても食糧の確保は大変でした。豆や米を炒ったり、カリン糖を作ったりして、家にある食糧は全て持ち出す事にしました。

九月下旬(何日かは定かでない。)夜、突然、引き揚げ船が入ったので荷物を持って桟橋に集合する様に云われ、リヤカーに荷物を積み、桟橋まで何度か往復をしました。斜古丹の湾外に大きな貨物船が停泊し、桟橋から漁船で夜が明ける頃から乗船が始まりました。

忘れられないのは共に遊んだ愛犬、チロとの別離でした。船が桟橋を離れる時、私の姿を探し、チロは鳴きながら左右に走り、別れを悲しんでおりました。引き揚げ船はドイツからの戦利船で、定かではないが八千トン位と聞きました。漁船からモッコで下に荷物をおき、その上に老若男女五、六人ずつ、十メートル以上もある所をモッコに吊るされ、船べりにぶつけられながら一歩間違えば海中転落と云う、それはそれは恐ろしい事でした。全員が船に乗り移ったのは十時頃だったと思います。

出航の時、父が「今度、何時来れるか判らないから、良く島を見ておく様に」と云われ、悲しくて悲しくて涙がとめどもなく流れ、島が見えなくなるまで島との別れを惜しみました。その日はとても天気の良い日で、その時の光景は今でもはっきりと覚えております。

引き揚げ船は択捉から国後・色丹・歯舞群島と引き揚げ者を乗せ、一路樺太へと向かいました。
船での生活は、船倉に縄梯子で船底までおろされ、大勢の人が狭い狭い所に入れられました。(総勢三千人以上はいたと思われます。)貨物船ゆえ、トイレの数がなく、最初は甲板に板で仮設のトイレが作られていたが、何日かすると各々が炊事の為にその板も使われてしまい、トイレもなくなり、甲板で用を足したり、シケに見舞われ、波が甲板をおそい、その水が船倉に流れこみ……、この事は、あまり思い出したくない事の一つですが、日に何度かあの縄梯子をつたい甲板に上る年寄り、女、子供の事を思い出すととても悲惨です。

船上生活も十日も過ぎたでしょうか、樺太の真岡の灯りが見え、夕方日が暮れる頃、私達は上陸をしました。小高い丘の上の女学校跡が収容所だと云われ、年寄り、子供以外は泥んこ道を歩いて行きました。私達はトラックで行きましたが、丘の上の収容所までの道のりは、それはそれは大変なものでした。

トラックから降りて、私がさげていたカバンがないのに気づきました。周囲を探しましたが、とうとう見つかりませんでした。そのカバンは、子供に持たせた方が安全と思い、殆どのお金が入れてあったのです。これはどなたかにとられてしまったのですね。子供心に責任の重さを今でも感じます。

収容所の生活は一日に少量のパンと塩にしんとスープが与えられました。学校の体育館に大勢の人が詰め込まれ、一部は二段ベットになっており、板の上に着のみ着のままで狭い所に荷物を置き、横になるのがやっとでした。この収容所にもトイレはなく、少し離れた所の谷に丸太を並べ、その上から用を足す有様でした。始めのうちは、ここも板とむしろで小屋がけをしてありましたが、これも一時の間に炊事のために使われてしまいました。本当に耽ずかしい話ですが、見通しの良い所でみんな並んで用をたしたのでした。樺太のこの時期は朝晩の凍れがひどく、どろんこ道がつるつるに凍り、寒さと飢えで亡くなる人が続出しました。

しばらくして、少し離れた第二収容所に移されました。第二収容所は引き揚げが決定し、船を待つ人達が入る所でした。ここでの生活は食事の量も少し増え、風呂にも何度か入った気がします。やがて日本の引き揚げ船、高倉山丸に乗り、函館に上陸致しました。高倉山丸は、日本の船なので、食事も、じゃがいもとか、おにぎりも何度か食べた様に思われます。

函館は夕方の上陸で、電気に照らされた赤い林檎を目にした時の光景は、今でもはっきりと脳裏に焼きついております。しばらくトラックにゆられ収容所に着きました。父が私達に赤い林檎とイカめしを買って食べさせてくれました。(長い長い引き揚げの船旅も終り、子供心にもほっとしました。)函館の収容所では、身体中にDDTをかけられ、持ち物検査、手続き等に四、五日もかかり、今度はぎゅうぎゅう詰めの列車に揺られ、一路根室の親戚の家に身を寄せました。日本の家でゆっくり一夜を過ごし、朝、二階の窓から外を眺めると、チラつく雪の中に四、五羽のハトが餌を求めて遊んでいる姿を見て、何かしら明日からの事がとても不安になり、ハトを羨ましく思ったものでした。

根室に来てからの生活はそれはそれは大変なものでした。
九月末に乗船してから約二ヶ月、家族全員無事に帰れた事が不思議な位です。まだまだ書き足りない事は沢山ありますが、恥を忍んで思いのまま事実を書きました。
私の故郷は、やはり色丹島です。なぜ、自分の故郷に自由に帰る事が出来ないのでしょうか?