元島民 – 得能 宏 – が語る「北方領土」

色丹島出身

”オーイ、汽車が来るから気を付けろ ”、そんな大きな声で急に我にかえった。もう疲れて疲れて、そしてどろどろになって、歩くのがやっとだった。自分の体よりも大きなリュックを背負い、前かがみに歩かなければ後ろにひっくり返ってしまいそうな荷物。持つ荷物も限られ、結局着れるだけ着る。そんな格好でもう何時間も歩いている。母(四十三才)、姉(二十三才)、弟(十一才)、私(十三才)は、はげましあいながら収容所へ向っている。夜も遅い時間だ。「汽車が来るぞ」、そんな声で気が付いたすぐそばに鉄道の線路があった。何人もの人が線路に耳を付けて汽車の音を聞いていたが、「来ない来ない」の声で、安堵の声があがった。そして線路のすぐ向う側に急な山(丘)が立ちはだかっていた。誰かが「この山の上が収容所だ、がんばれ」との声があった。
この山を登る前に話を色丹島へ戻す。

二十二年の九月下旬頃、急にソ連側から「日本へ帰れ、残るんならソ連人になれ」と云われた。私共一家も母を中心に引き揚げの準備にかかった。長く保存が出来、手軽な食料品づくりが始まった。米、コーセン、カンパン、そして母は先祖の「位牌」、古い島の写真も一緒に。調べられても見つからない様に底の方に。姉は一週間前に死んだ長男の遺骨も、一緒に入れた。

終戦後三年間のうちに島の東、南側の各部落の多くの人々は脱出していたが、不幸にして脱出出来なかった人々、そして斜古丹や又古丹の人々も続々斜古丹湾に集結して来た。皆すごい格好だ。船の名前も判らない。ただ、でっかい船だ(約一万トンを超える)、荷物も人も一緒に大きなモッコに入れられた。そして船についている大きなボンブで一気につりあげられ、船上に。もう必死になってモッコの綱につかまった。「オッカナ」かった。悲鳴も声も出せないくらい、どの顔も青ざめている。

すでに船内には択捉、国後、各引き揚げ者がいっぱいいた。船倉の中に二段、三段式ベットがあり、我々一家は下段と中段をもらった。換気が悪いのか、もう臭いがあった。色丹島を後に歯舞群島の人々も収容が終って樺太へ向う途中、大時化に遭い、船上に作られた仮便所も波をうけ破損、汚物が甲板上を洗っている。その海水が船倉の中にも侵入している最悪の状況だ。

母はこんな状況で子供達をつれてよほど不安だったのだろう。お父さんがいればと愚痴る。父源治は、北方特別警備隊長(陸軍中尉)の戦犯として樺太の北部に連行された。この引き揚げ船に男は少ない。どの家族も心細く不安の中での引き揚げなのだ。家族をあげて働き、ようやく築きあげた財産も全て失い、有無を云わせず我々を追い出したロスケの仕打を憎みながら、荒れた海、苦しい航海が我々の前途を暗示するかの様だった。そして樺太の真岡に一週間もの長い船上生活だった。老人・子供、体の弱い人々等がトラックに乗って収容所まで行くと云う、「妹幸子、六才」もトラックに乗せてもらい、安心した。我々一家五人は歩いて収容所へ向うことになった。そしてようやく坂の登り口までたどりついたのであった。

多くの人々がよじ登る様にして山を進んだ。泣きながら登った。そして、丘の上の大きい広場に出た。学校が収容所だった。暗くてなにも見えないが無事妹も含め、一家の安全が確認され、寒い中お互いはげまして朝を待った。

翌日から想像を絶するきびしい収容所生活。寒いし、きたない、食料もない。黒パン、そして塩辛いニシン、そんな食事であった。そして各人が持参したなべや飯ごうの自炊、米を水でとかす様にしてつくる「おかゆ」だった。

収容所から百五十米くらい離れたところにトイレがあった。それはロシア式の間仕切りも何もない、ただ穴のあいたのがいくつもあるだけ。日本式とはまるで違い、男はいいとしても、日本女性は耐えられない様子だった。そして数日後にはそのトイレの外側の板が次々にはがされた。全部自炊のタキギになってしまったのだ。その状況は察するに充分である。その時の気持を、今でも斜古丹の小学校の西田とし先生(現鈴木とし)は云う。「あんな恥ずかしい時を過ごしたことを思うと哀れだった」と。

着のみ着のままの生活が続き、「しらみ」が大発生、体がほてるくらいかゆい。収容所のあちこちで、寒いのに裸になってしらみ退治。石で下着のぬい目にむらがっているしらみをたたく。また、自分の歯で食いつぶす人、歯が真赤、そして両親指の爪も真赤だ。

そんな中で、色丹から一緒に来た浜田(餅屋)のおばあさんが死んだ。栄養失調だ。樺太の十月は寒い、老人や子供には大変だ。
病気になっても薬もない、医者もいない、随分死んでいった。子供が背中で死んでいたり、そんな悲しい事も随分あった。いつ日本に帰れるのか。でも確実に日本船が引き揚げを開始しているとの情報もあった。 我々の入っている小学校の収容所からもう一つの、もっと高台にある第二収容所(女学校)に移ると、すぐ日本船に乗船できる順番が来るらしいとの話が伝わった。はっきり思い出せないけれど、十一月中近くだったか、ついに色丹島組の第二収容所への移動だった。女学校は大きくきれいな校舎だったと覚えている。

その頃引き揚げ者の中の数少ない男達が山林の切り出しか何かの仕事をさせられた。
その人達の中で、色丹島の得能隊長が樺太のもっと北部の収容所に居るとの話を聞いて教えてくれた。無事でいることが判っただけでも良かったと皆で安心したのだった。
この女学校の収容所からは真岡の港が良く見えた。日本引揚船らしい船も良く見ることができた。皆で「いつだ、いつ帰るんだ」と、そればかりだった。

十一月二十日頃だったと思う、ついに私達は日本引揚船高倉山丸(七百トン位か)に乗船できた。九月の終り頃、色丹島から出発を開始して、ようやく十一月二十三日函館に上陸できた。万感胸に迫る思いだ。長く、つらかった。

検疫所では頭から足までDDTを真っ白になるまでかけてもらい、ようやくあの「しらみ」とも別れることができた。
でも引揚船の中でも多くの人々が死んだ。私の姉の長女貞子も函館上陸直前に死んだ。哀れだった。目前まできていたのにと思うと。

私の人生、六十年の中のほんの二ヶ月の出来事ではあるけれど、一生の縮図のように思うし、この二ヶ月の出来事は生涯忘れることのできない歩みだった。
最後に、私の父はその二年後、無事樺太から帰還できた。

私達一家は、その年の十二月の遅くに根室町に着いた。衣食住に事欠き、生活苦にあえいだ。でも、多くの人々の善意に支えられ、今日あることを深く感謝をしている。
一日も早く故郷色丹へ帰れる日を待つことにして筆を置く。