元島民 – 濱田 和子 – が語る「北方領土」

国後島出身

十年ひと昔というが、五十年の月日はあまりに長い。五十年前を思いうかべて見ても、正確に憶えている事は殆ど無いに等しい。日時については、なおさらである。断片的に思い出す事を綴って見た。

ソ連軍の進駐当初は、わけもない恐怖で、兵隊の姿を見るだけで、家の中に隠れたりしたものである。だが日がたつにつれ、危害のないこともわかり、馴れるにしたがって、片言のロシア語を覚え、身振り手振りで相手と話すようになっていった。

その頃、ひそかに漁船を利用して島を脱出した人達の事が聞こえて来た。或る夜、父が知人の舟に便乗して根室に行ったが、二、三日で戻って来た。終戦一ヵ月前に空襲をうけ、焼け野原と化した街の有様に落胆し、自給自足が出来るこの島で暮らし、暫らく様子を見ようと島からの脱出を断念した。

それから間もなく、動力船は勿論、船と名のつく伝馬船まで没収された。これで本土との連絡は途絶えた。又、生活の糧となった小魚を獲ることもできなくなった。そのうちに生活の知恵というか、苦肉の策で板に乗り、えさをつけた籠を入れえび等をとっていた記憶もある。

ソ連の民間人も島に住み、ロシア人の婦人、子供の姿も見られる様になった。その頃、我が家にミシンがあった事もあり、兵隊のズボンとか、将校の帽子等の縫製をたのまれ、姉はかなり苦労しながら作り上げた様である。それが意外に好評で、その後も幾度か作っていた。又、私もマダム達に頼まれて、和服を利用してドレス等を二、三作ったりした。今で云うリフォームである。その報酬として兵隊達は、当時とても貴重だった石けんや砂糖を持って来た。こうした日々が過ぎた翌、二十一年、頑強な身体の父が風邪をこじらせ他界した。医師に診てもらうすべもなく、淋しい最後であった。若い頃、島に渡り、漁業一筋に生きて来た父が、住みなれたこの地に骨を埋めたかったのかと、脱出を拒んだ気持ちが思われた。

翌、二十二年夏、第一回の引き揚げがあり、部落の半数が去った。残された私達は又、冬を越し、何時訪れるかも知れぬ引き揚げの日を待ちながら食糧補給のために、春には、芋蒔き等に精を出した。そして六月の下旬、ウエンナイに移るようにとの指示が出て、生まれ育った家を後にした。前年引き揚げて、空家になっている一軒にひとまず落ち着いた。短い期間のせいか、ここでの生活の記憶を全くない。

幾日かすぎ、再度の指示で二十トン位の漁船に乗り「キナシリ」に移り、ここで引き揚げ船を待つ事になった。真夏の事とてバラックの住居も苦にならず、近くを流れる谷川の水で炊事の仕度をしたり、洗濯も出来た。ここでは一ヵ月近く暮らしたように思う。

そして引き揚げ船が沖合に姿を見せた。小さな船で本船が近づいた時、何メートルもある高い絶壁が目の前に現れたように思えた。甲板から降ろされる荷積み用のモッコに荷物をならべ、その上に何人かずつ乗って、ウインチで引き上げられた。

甲板に降り立った時、これで本土に行けるという安堵とともに、この島へはもう帰れないだろうと思う淋しさとが交錯していた。何万トンもある大きな船体であったが、折りからの台風に遭遇し、ひどい揺れに、女や子供は船酔いになやまされた。

真岡についた時にはとても晴天で、暑い陽ざしが輝いていた。
上陸して校舎跡の収容所に入った。そこでは黒パンと塩魚、そして、お粥のようなスープが配給になった。真岡での日々もあまり覚えていないが、日中は半袖でいられる暑さなのに、夜になると急激に冷え込み、朝方には水溜りが凍っていたような記憶がある。

次々と日本の引き揚げ船が真岡をはなれて行った。私達もその船に乗る日が来た。真岡滞在は二週間位だったろうか。
船の名前は「高倉山丸」。乗船して間もなく同じ部落の人達の乗船名簿を作る手伝いをするため、事務室に行き、そこで前年引き揚げた、同じ村の人達の名簿を見る事ができた。言いようのない懐かしさであった。船は一路、北海道へと進んだ。島から根室まで数時間でつく距離を、なんと遠回りしたものか。これが引き揚げの手順なのか。

函館山が見えたが、すぐにかすんでしまった。涙があふれていた。これからの生活をどうするのか、そんな事を考えるまでには、かなりの時間があったような気がする。北海道の土を踏んだ実感は、それほどに強い嬉しさであった。

領土復帰は遅々として進まない。半ばあきらめに近い。だがやはり続けて行かなければならない運動であろう。