元島民 – 佐藤 正二 – が語る「北方領土」

択捉島出身

濃霧、軍艦、上陸、ソ連兵、二年間……八才(小二)

すみきった青空、リンゴの歌、DDT、函館港、夜汽車、乗換え、根室、引揚寮……十才(小四)

忘れもしない昭和二十年八月二十八日朝、濃い霧の中、故郷(択捉島留別村)へのソ連兵の上陸。軍司令部に使用のためと言って我が家(駅逓)は二時間で没収、親子共々親戚の家に強制移転。のどかで豊かな生活から、本土からの連絡も途絶え、いつまでこの状況が続くのかもわからない不安と、生活、習慣文化などあらゆる面で大きく異なるソ連人と共に悪夢のような二年間の占領生活が始まる。

二十二年九月初旬、夕方より留別の浜からの引き揚げが始まった。着の身着のまま、ソ連の貨物船の船底に荷物同様に押し込まれる。甲板へ上るのも細い一本の鉄梯子のみ。トイレに行くにも困難な昇り降りの状況の中で、何処につれて行かされるのかも知らされないまま、あきらめと不安な夜を過ごす。

三日後、樺太(サハリン)真岡港に入港。丘の上の女学校に収容されるが、あふれんばかりの引き揚げ者の数と外でのテント生活。シトシトと降る雨、ぬかるみのグランド、テントの中も水びたしとなり、校舎の廊下で寝泊りする。遠くて暗く、夜にはとても用をたす事が出来ないような、板を渡しただけの深くて不気味な便所。あれをしたらシベリアに連れて行かれる、こんな事をしたら引き揚げさせない、などなど飛び交わされる悪質なデマ。日本人同士が互いに不信感におちいるような言動が次々と出廻り、身を小さくして引き揚げの日のくるのをじいっと待っている毎日であった。

十日程を経て、引き揚げの通告。港に停泊する「赤十字」のついた日本の船が目に入った時の新鮮な感動と喜び…。いよいよ帰れる、張りさけんばかりの興奮が身体を駆けめぐる。
引き揚げ船「興安丸」に乗船、狭いながらも家族が身を寄せあう事が出来るのは、ソ連の貨物船とは雲泥の違いがある。船員から貰ったリンゴのうまかったこと。波をけたてて進む船のたくましさ、日本に近づいているという実感が肌にきざみ込まれる。

そして三日目の朝、澄みきった青空のなか函館港に入る。スピーカーより流れる「リンゴの歌」の軽やかなひびき、頭から足の先まで真っ白にされた「DDT」、子供心にもやっと日本に着いたという安堵感がじわじわと広がって来る。

約一週間の沖泊りの後、函館上陸。千代が岱の一時宿舎の庭で見た初めての蛙(島には蛙も蛇もいなかった)。
夜汽車で函館出発。生れて初めて乗る汽車。
すすとほこりで真っ黒な顔、そして何回もの乗換え。

十月上旬、約一ケ月に渡る引き揚げの旅も根室で終った。引き揚げ寮での生活、家族が多いのに部屋が小さく、また大勢の世帯が一緒に住む共同の生活、食べる物も着る物もほとんどなし。兄や姉も住み込みで働いたり他の土地へ行っての労働で飢えを防ぐ。

島の素晴らしい自然、恵まれた環境と資源、豊かでおおらかな生活、駅逓(旅館)と牛や馬を飼っていた広い牧場、鮭鱒で賑わった漁場など、親が築いたそれらの財産がソ連という国に一方的に占領されたばかりに、一瞬のうちに消え去り、戦争の結果とはいえ引き揚げ寮での生活と比べて天と地との差をいやがうえにも感じさせられた日々であった。

父なきあと(二十年四月没)、女手一つで六人の子供と三人の孫をかかえ、択捉、樺太、函館、そしてただ島に近いという理由のみで根室へと(択捉島の産物は主に函館、釧路との取引が多かったが、父の死でそのつてを頼る事が出来なかった)希望の無い、生きるための旅を経て根室に定住し、子供をそれぞれ独立させた母。

また、当時の苦労を一言も話さずに死んで行った母に、戦後五十年、墓参、ビザなしと島に渡れる機会の多くなった今、故郷「留別」の父の眠っている墓の前に一度立たせてあげたかった…、その思いが一杯に広がるなかでペンを置きます。

「小学校二年生から四年生迄の子供の時のたった二年間の出来事を思い出し、思い出しをしながらの文です。日時、地名、その他に記憶違いがあると思います。御容赦下さるようお願い致します。」