元島民 – 寺嶋 利三郎 – が語る「北方領土」

歯舞群島(多楽島)出身

終戦を知り敗戦の噂にも半信半疑であったが、突然ソ連兵が島を侵略したので島を引き揚げることになった。
当時我が家にも動力船があったが、二人の兄達が徴兵で操船ができず、やむを得ず、隣りの動力船に便乗をお願いして、一家は二隻の船に分かれて根室へ引き揚げた。

引き揚げ後の一家は、市内落石西の、母の実家に身を寄せた。弟と妹達は離れ離れの生活で親戚の家に一時期であったが世話になった。 その後一家は親戚の番屋を借りて暮らすことになった。兄は、二人とも軍隊にとられ、また、親父も終戦近くまで徴用兵で炭坑に引っ張られ、あげくの果て、「トロッコ」に挟まれて肩の骨を折って入院、終戦前の一家は苦境の生活であり、自分と母のか細い働きで蓄え、島に置いてきた生活に必要な家財のことは、忘れようとしても忘れられず、常に脳裏にあった。

母は島を引き揚げる時、持ち物は身の回りだけの条件で隣の船に便乗させて貰ったために、島から持ち出せなかった布団に、相当未練があった様である。
冬の寒さを凌ぐには親戚縁者からいただいた寝具だけでは九人家族にはどうしても足りない。母は島に置いてきた布団だけでもあればと、悔やみ、残念がっていた。

時折、島の様子を聞くために、落石から根室に出て、友達と会い、ソ連兵の監視の様子や噂を聞きながら、家に帰ること再三であった。
ある時は、ソ連の監視船は多楽島にはいないとか、何隻も船が島へ物を取りに行ってきていると言う話も聞いた。何とかして島に置いてきた家財を取りに戻りたい心境だが、当時十六才の若造の私と病み上がりの親父では無理な相談である。
そんな時、突然長男が復員してきた。

終戦直前まで多楽島税庫前で漁業をしていた親戚の魚谷さんは、富山県の人で、根室の空襲で米軍機の銃撃を受けて、亡くなった、魚谷さんの動力船が根室に上架されており、長男と落石在住の魚谷の弟さんと共に、島に置いてある家財を取りに行く事に話が決まり決行した。
定かではないが、それは昭和二十年九月の二十日頃であったと記憶している。

出入り三日間の予定で根室港から夜中に出港し、多楽島東端の税庫前に翌朝着いた。
先に魚谷さんの方から仕事に掛かり、納屋に入れてあった伝馬船を浜辺に下げ、家財や海産物の船積み作業を程々に切り上げ、船は我が家のある、南蒲原磯へ向った。

回航は兄等二人に任せて、私は税庫前から約二里半余り離れた、我が家へ陸から馬に乗って走った。途中、大釜前の浜辺を通ると、馬に二人乗りのソ連の兵隊が何処からともなく現われて、私は捕まってしまった。言われるままに馬から下りると、一人の若い兵隊が私の馬に乗り替え、来た方へ走って行き、見えなくなってしまった。

後から追ってくる気配もなく、暫く元住んでいた我が家に辿りついたところ、島から逃げるとき、海産干場に上架して置いた我が家の動力船は、下架されて船影もなかった。
また納屋に積んであった結束した昆布や隠して置いた肝心の米俵も盗まれてしまっていた。

島から逃げる時に持ち出せず置いてきた母が気にしていた寝布団はそのまま、寝間に積み重なって残っていた。
まず、濡れないように先にそれを積込み、次に、生活に必要な家財を川崎船に積み込んだ。幸いにしてその間、ソ連の監視船や警備隊が回って来なかったので、日暮れを待って、伝馬船と川崎船二隻を曳航し、多楽島を脱出した。

しかし、夜明け近くになり明るくなってきたので志発島や水晶島のソ連兵の監視を気にしながら無警備と思われる秋勇留島寄りを航行した。
当日の海は油を流したような凪であったが、運悪く、浅瀬を航行した為に岩礁に動力船の底を触れさせてしまった。

幸いにして動力船には浸水しなかったので安心したが、プロペラとシャフトを曲げてしまい、上下管が浮き上がり、必死で振動を防ぎながら、微速の状態で漸く魔の海を脱出した。
しかし、二隻の伝馬船を島から荷物を積んだまま曳航しているために、落石までの航海は危険となり、近くの歯舞の前浜に船を着け修理し、あくる日、ようやく落石港の前浜に無事到着できた。

わが家は貧乏の上家族が多かったので一番困ったことは食糧事情である。
母の実家は網元であったので、魚粕を貰いそれを父は農家へ行って食糧と交換、親戚縁者の有難い援助で一時を凌いでいた。
その後、次男も復員してきたので、長男を中心に兄弟で良く働いた。

私は昭和三十年に根室から釧路市に転居し、大手水産の極洋捕鯨株式会社釧路支店に就職し、日米加、通称デルタ海区、三国共同漁場の北洋転換船の機関長として乗船することになった。

昭和三十九年一月、勤務の都合で再び北方領土の国後島、歯舞群島が目の前に見える根室市の住民となり、また友達と会う機会が多くなった。
昭和三十九年頃になると、四島より引き揚げた島民の方達は戦後の混乱期を乗り切り、新生日本の復興から高度成長期に入って精神的にも経済的にも安定していた。

その頃、前千島歯舞諸島居住者連盟理事長であった故箭浪光雄君は、先輩の東狐猛、高橋実、両氏等と共に、昭和四十四年に多楽島青壮年連絡協議会を創立、その後発展的に青壮年協議会を解散して、元多楽島在住者及びその後継者を以て組織する、多楽会を創立した。

現在多楽会も遂年その組織が拡大充実され、一層強硬な団結によって、益々発展を続けている。
毎年の総会には、老若男女三百人を越える出席者で北方領土返還運動に対する決意を新たにして会の発展を図り、一層の団結を誓い合っている。私は昭和五十三年から副会長を六期十二年間務め、平成二年度からは、多楽会会長を引き受け、今日に至っている。
今後とも、創立者の情熱を胸に、先輩達が築いてこられた輝かしい歴史と伝統を改めて振り返り、自ら果たすべく会員の和に努め、北方領土返還運動の推進を展開していく決意です。