元島民 – 中田 勇 – が語る「北方領土」

色丹島出身

私は、昭和二十三年から平成元年まで四十一年間の教職に奉じ、定年退職して、自適の生活である。戦後五十年、我が家にとって、根室空襲・終戦・農地改革・引き揚げ、そして戦後を生き抜くために、様々な苦労と生きざまを展開してきた。思うがままにその道を辿ってみたい。

終戦までは、色丹島で漁業を営み、裕福で平和な生活を過ごしていた。終戦直前の七月十五日、根室大空襲で家と財を焼失し、家族は裸一貫で、逆の方向、色丹に疎開して行った。私は在学中の身、学徒動員で本道に一人残され、”敗戦”色丹では我が家の倉庫にソ連軍が駐屯し、持っていた漁船は没収され、脱出できなかった。弟三郎は陸軍通信兵学校から復員したが、父母の住む色丹には帰郷不能である。その弟を根室商業に復学させ、卒業した私は、弟の学費と、只一つ残された財産(十七町歩余の水田)を守るために旭川に向かった。水田は不在地主の名の元に、農地改革の大波に呑み込まれ、小作の手に渡ってしまった。私は旭川国策パルプに勤めた。

やがて昭和二十二年、寒風に身も凍る十一月末、家族七人が身も心も疲れ果て、痩せ衰え、哀れな姿で旭川に引き揚げて来た。祖父と父の二代で財を築き、その全てを、空襲・終戦・引き揚げで失った悲しい姿と、お腹の大きい母と、不安そうな可愛い弟妹を目の前にして、只、呆然と何も語る術もなく涙が湧き出てくるのであった。『よし、俺がこの家族を救うために、せめて祖父を畳の上で死なせるのが俺の役目』と、心に誓った事を思い出す。…家族は成す術もなく、母の生地である落石に居を求めて去って行った。

古い板壁一重の、六畳八畳の借家に弟を含めた家族八人で、寒さと不自由な生活が始まった。食糧が無い。暖をとる薪も無い。引き揚げの時に受けた一人千円の金も底をついた。途方にくれ、父は仙夫や薪出しをした。兄は落石無線に勤めた。母は二月に末妹を生んだ。その子は、母が栄養失調だったせいか、小さな未熟児のようだった。いろいろな願いを込めて「幸枝」と名付けた。母は育児と家事で苦労した。食べ物で馬鈴薯は上等で、大豆粕・澱粉粕などで凌いでいた。

私は二十三年五月に旭川の会社を辞し、落石の家族の元へ帰ってきた。父と弟と私の三人で働けば、家族十人は食べて行けると思ったからである。その時の退職金、二万円で家族の窮地を救ったといっても決して過言ではない。祖父は借家に仮設の神棚を作り、退職金を捧げ、「勇のおかげで救われる。どうぞ家族に安泰を」と祈っている姿を見た。父も母も弟妹までが、神棚に手を合わせていたという。そこに潜む家族愛と親和の心は尊いものである。

だが食糧難と生活苦は続いた。一人の妹は、義務教育である中学校にさえ行かされず、働かされていた。父と二人で遠く旭川、空知、十勝まで、近くは根室原野に食糧の買い出しに何度となく行った。何時か帯広駅で捕まって、ひどい目に遭ったのを思い出す。

父は家族を連れ、瀬臥牛(現在の浜松)に共同で昆布採りに就いた。しかし、我家には舟も浜もない。莚一枚、棹の一本も無いのである。ただ、家族の労力を提供するのみである。
昆布操業が一週間過ぎた頃、弟三郎は家を飛び出してしまった。母は末妹を生んだ後、諸々な過労が重なり、産後の肥立が悪く入院。私は慣れない仕事に頑張った。昆布採りを終え、夕方から引き綱を曳き(魚肥を作って米と交換するため)晩、遅くまで働いた。しかし遂に身体を壊し、漁師として続かず、教職の道へと進んだのである。

やがて翌年の二十四年、父は漁船の船頭をしていた。母は遂に結核となり、十一月に乳呑み児を残して他界した。思えば、二十才で我家の嫁となり、二十四年間で八人の子供を生み父と家を助け、家業に身を粉にして働いてきた母は、何一つとして幸福感を味わった事が無かったであろう。
父の不在、母のいない家庭を支える私の責任は重大であった。末妹の養育、弟妹の教育、家計のやり繰りなどに苦労し、私の所には、誰一人、嫁に来る者もいなかったのである。

昭和三十年代以降、上から兄弟、妹達は次々に独立して行った。「親は無くとも子は育つ」、八人の兄弟、妹達は一人も欠けることなく、子や孫に囲まれて、それなりの幸福な生活を営んでいる。父は五十三年、七十四才で永眠した。苦労して育てた末妹幸枝も四十七才になろうとし、三人の子の親である。それは全て、祖父母、父母の献身的な努力のお陰である。「大恩を忘れず、兄弟、妹達は仲良く長生きしよう」。

最後に、風光明媚な懐かしい郷土「色丹よ」、一日も早く返還される事を祈るばかりである。