元島民 – 永塚 良 – が語る「北方領土」

国後島出身

私は、国後島生まれの乳呑路(チノミノチ)育ちで、昭和二十年三月、同島最東端の地、白糠泊に現地入隊し、同年六月、色丹島旅団本部に、乙種幹部候補生として転属となり、八月終戦直後ソ連軍に捕われの身となった。シベリアに抑留され、トボルスクという収容所生活を送り、二十二年一月、長崎県南風崎の海岸に漂流していたのを、アメリカ沿岸警備隊員に救助され、佐世保引き揚げ援護局のお世話になった。
およそ一ヵ月の療養生活をし、健康の回復を待って、父母の出生地である秋田県に身を寄せ、家族の引き揚げを待ちました。

翌二十三年十月も終わる頃、家族の引き揚げがあり、父の第二の職場となった標津の地、薫別小学校教員として奉職、以後同忠類、別海町西別、同床丹第一、矢臼別、網走管内湧別町登栄床、湧別、そして根室北斗の各小学校を転勤、昭和五十八年三月勇退し、やっと自分に戻り、これからの余生を考えた時、ふと、戦後三十年、今、私が第一の故郷として育ったあの乳呑路が、どうなっているのか?あの家はあの馬たちは?家の前の砂浜は?否、花畑は?学校や役場は?公会堂、お寺や神社、郵便局や漁業組合等々、島に渡って一度この眼で確かめることが出来ないものかと考えていた時でした。

私の立っていた側に一台の車がとまり、「先生!」と声をかけてくれた方があり、それは、二十五年前に教えた西別に住む山崎君という一青年でした。久しぶりなので納沙布岬に行くという。私も行きたい事を告げると山崎君は、「どうぞ乗って下さい。」というので、私は彼の車に乗り込み、納沙布岬へ向かいました。私はこの時、初めて納沙布岬を見たのです。北方館の中に入ると、「北方領土返還要求運動にご協力を」という署名などを扱っているところがあり吃驚しました。早速、私は署名をしました。また、館内には、北方領土となった四島、色丹島、歯舞群島、国後島、択捉島が綺麗に図示され、島で生活に必要とされていた古い家財具等が陳列されていたのを見て、私も、これからは、元島民だった一人に加えてもらい、この運動に参加して少しでも力になりたいと思いました。現在、根室市に住む在島時代の友人、知人と共に集会等には積極的に参加することにしています。

書房へ行き、「北方領土」と名のつく刊行本も買い求め、読みもしました。いろいろ日本の有名学識者が北方領土問題について考えを述べています。また、それに反論するロシア筋の動きもあるようで、領土返還問題がいかに難しいかがわかりました。難しいからやめる、諦める、手を抜く等、弱音を吐いては大変です。

北方領土は、父祖伝来の地であり、私達はそれを受け継いで生き続けているのです。そんな大事な領土を、ソ連が強制的に四島に住んでいた日本人を追い出していい筈など、どこにもありません。
以来、追われて半世紀になりますが、この間、あらゆる苦労をし、再び北方四島に復帰できる日を待てずに他界された幾多の先後輩方の心痛を偲ぶとき、無性に憤りさえ感じます。

或る時、私が友人と納沙布へ行き、北方館内で島の風景パネル、写真を眺めていたら、大きなリュックを背負った人と、カメラマン風の人が私の傍らへ来て、私に話しかけてきました。「失礼ですが、元島民のお方ですか?」「はい、そうですが!」「私は某放送、札幌支局に勤務している○○といいます。只今この地に訪れる方々の中から、島の様子を聴けないかと歩きまわっていたところなのです。早速、私共に少々の時間をいただけませんか。」との事でした。私は、そのたのみを受け入れることにしました。「私は元島民ではありますが、引き揚げ者ではないので、引き揚げた当時の様子はよく解りませんよ。」というと、少し残念そうにしていました。「いや、島での生活や、島の様子、助かった頃の思い出話等を聞かせていただくだけで結構です。」という事で、当時の故郷の様子、人々の生活状況、学校時代の思い出を話しました。凡そ一時間もかかったようで、大層興味深げに聴きとってくれました。

話が終ったと思っていたら、今度は、「島が還ったら、また島に戻られますか。如何ですか。」「是非、還りますよ。戻る覚悟でいますよ。」「その主な理由みたいなものがあったら、お聞かせ下さい。」
「まず、第一には、島には(故郷)、私の祖先や姉と弟が眠っている墓があります。このお墓を守ることが私の仕事なのです。残った私が継承してゆかねばならないと考えるからです。
第二には、長い年月をかけて祖先が造りあげてきたこの土地、故郷を他国に利用させるなど、とんでもないことで、この領土には先人方々の血と汗と涙が沁みついているので、この財産を大事守るためにも帰らねばならないと考えていますよ。
もうひとつ第三には、故郷には、豊富な海産資源があり、生活に困ることは何ひとつないのです。この無限な資源をうまく活用することで本土にもそれなりに生活の扶けとなるだろうと考えるからです。」

「島を返してもらうには、どんな事をこれから考えてゆけばよいとお考えですか。最後の質問にさせていただきます。」「”島を還せ””島よ還れ”という唱え方は、もう通用しません。ロシア人も人間仲間である限り、私達と同様に島を故郷と決めつけている訳ですから、こちらからだけの主張には応じてくれませんよ。例えば、一個しかない饅頭を、空腹中のAとBが盗り合っているのではなくて、仲良く二人で分け合って喰べるという事なのでしょうね。但し、島は、あくまでも日本の領土である。主権は日本国であること。この点をロシア人にも北方領土の島々は日本固有の領土であることを充分理解させ、熟知していただかなければいけないと考えていますよ。」と口を結んだことがありました。

今、私達島民は、残された人生をこの先何年かかろうとも、後世にこの運動を継承していかねばならないし、そのための正しい見極めを怠らないように努めていかなければならないと思います。
今、元島民は、島毎に、或いは島の集落毎に会を組織しています。私達も爺々岳の麓に生を受けた事から、会の名称を爺々山会と呼び、現在会員数二四三名、全国に散る会員には年に一度会合を催すための呼びかけをし、温泉に入り、思い出話に明け暮れします。

今年は、爺々山会も設立十四年目を迎えます。年と共に会員数の減は誠に寂しいものがあります。夫々に与えられた大事な人生を精一杯生きようと、会員同志はいつもなごやかな雰囲気の中で頑張っています。
また、今年は、二度もシケで実現出来なかった北方墓参、やっと三度目で完全上陸を実現出来て、五十年ぶりで懐かしい故郷の土を踏むことが出来ました。参加した遺族の殆どは、会員仲間でした。
私達は、長い間待ち焦がれていた故郷、乳呑路の地に眠る父祖、肉親の墓参慰霊の願いが実現し、長い間、来られなかったことをお詫びし、心からのご冥福をお祈りして来ました。