元島民 – 岩田 宏一 – が語る「北方領土」

択捉島出身

昭和二十二年九月、ソビエト貨物船に乗せられ、樺太の真岡収容所を経由して函館に上陸した蘂取村民二百五十三名は、択捉島を出発してから既に二ヶ月も経った秋であった。

脚が不自由で移動のすべてに担架が必要で、人々のお世話になった祖父は、ひとまず国立病院に収容され、残る九人の家族も引き揚げ者寮に落ち着いた。
約ひと月後、病院の祖父を見舞った幼い四人の妹は、病院の患者から麻疹にかかり、長い収容所生活や、強制移動のつかれからか忽ち高熱の連続で弁天町の検疫病院に収容された。
その年の十二月、そのうちの二人の妹は相ついで亡くなり、弟と共に亡骸を背負って火葬場にいったことは忘れられない。

明けて、昭和二十三年一月、家族が妹たちの看病をしているさなか、祖父は一人息を引き取っていた。検疫病棟の裸電球、重湯とスプーン、燃料の杉枝、半月足らずの間に三人の弔いをしたあの正月は私の心に暗く重く焼き付いている絵である。

父岩田末吉は、終戦時択捉島蘂取村村長をしていたため、公職追放となり函館上陸後は無職無収入の状態が続くまま、村の人たちの落ち着き先を気遣い、ソビエト軍の命令とはいえ半数の村民が残ることへの責任感からか、あとの半数の人たちが帰るまでと函館に残留をすることに決める。
しかし、翌昭和二十三年秋、残る半数の村の人たちが送還されるまでの私達の生活はさらに、惨めなものであった。

それ迄あらゆる苦難を共にしてきた従姉弟二人は、ひとまず彼女等の兄のところへ引き取られた。
その兄とて戦地から復員したが、択捉島に帰る船便はなく、止むを得ず函館に職を探していたところに家族が舞い戻ったのである。

とりあえず弟はオモチャの町工場に勤め、我が家の生計を支える。
私も止めようと思った高校も休学ぎりぎりのところまで休み、函館ドックで鋳物の残滓粥を捨てるアルバイトにいった。

配給の米は不足で、満足に弁当ももてず、飯盒にお粥を入れ、他人に分からぬように顔を飯盒に突っ込んで食べた。残滓捨ての失職仲間は様々であったが、不思議に各人の弁当は米の飯で、本当に羨ましかったことを覚えている。

昭和二十三年秋、第二陣の帰国と共に我が家も函館の地を引き払い、根室に到着、早速花園町のいわゆる引き揚げ者寮に入った。
最初は、花園交番の隣の寮の六畳二間にざこ寝の状態で生活は始まる。そこは冬の間だけで、次の春には別棟の寮に移った。

父は北海道教育委員会根室事務局に、今でいう臨時職員の形でもぐり込み、封筒書きなどの雑用に携わり、ようやく生活も普通になりだす。
やがて、GHQ指令の公職追放G項は解除になり、父は北海道教育委員会に正式採用になり、ようやく安定の状態になる。
妹たちも北斗小学校に通い、今までの苦労など少しも知らぬ楽しい生活が続く。

自分たちの生活を維持することに精一杯の我が家も、組織的領土返還運動に関わったのは昭和二十八年七月十七日、東京の日比谷公会堂で行なわれた千島歯舞諸島復帰懇請国民大会であろう。
参加者のおもな方で、当時の北海道知事田中敏文氏、歯舞村長川島千代吉氏はそれぞれの立場から領土復帰につき自論を述べた。

続いて、小泉秀吉氏が現地報告、さらに岩田聿子が作文朗読をした。
ここに根室町関係者(安藤氏、山下氏、内野氏など)の名前のないのは、多分十七日は根室空襲法要二日後で根室側との日程の調整がつかなかったのであろう。

強制送還後の蘂取村人たちは、北海道は稚内から東西南北各地、日本全国も関東、近畿など各地方に散り、ひとりひとり知り得る術もないが、概ね似た状態で、私たちは恵まれた方と思っている。
再就職の際、比較的恵まれたのは援護方針の明確な郵政省関係で、郵便局に勤務していた人たちは曲がりなりにも各地の郵便局の仕事についたが、それとて個々では事情が異なり、冷たくされ転職者もでる。
なかんずく、漁業関係者の労苦は並みのものではなかった。

その頃小学生だった人は同世代との同時進行は可能だったが、成人に達した人のもつハンディとか、ブランクの埋め合わせには、大変な努力と忍耐が求められたのであった。