あなたの町と北方領土とのかかわり 青森県

青森県ねぶた祭りの写真

青森県ねぶた祭りの写真

青森県人は、古くから北方漁場の開発に先駆的な役割を果たし、防衛の一線にも立って来ました。また、ロシアとの外交にもかかわっていました。

(1)青森県と北方領土のかかわり

1)多賀丸と日本語学校

1745年(延享2年)4月13日、佐井湊(現在の佐井村)の1,200石積多賀丸が、千島列島のオネコタン島に漂着しました。多賀丸は前の年の11月14日、大畑湊(現在のむつ市大畑町)から江戸に向かったのですが、途中、暴風にあって難破したのです。乗組員17名の大部分が下北半島の漁村の出身でした。

オネコタン島に漂着した時には、6名が亡くなっており、上陸間もなく船主の竹内徳兵衛も亡くなりました。残った10名はカムチャッカ半島のボリシェレックに送られましたが、思いがけない厚遇を受け、次のような、ロシア名までもらいました。

三之助=イワン 利八郎=マトヴェイ 勝右衛門=グリゴリー 伊兵衛=パンテレイ 七五郎=アンドレイ 勇三次=フオーマ 久寅=ピョートル 久助=エワン 利助=パーヴェル 長助=プィリップ この内の5名は、ロシアの首都サンクトペテルブルグに招かれ、日本語学校の教師を命じられました。日本語学校の教師になった彼らはここで結婚し、子どもが生まれ、1754年(宝暦4年)日本語学校のイルクーツク移転とともに、彼らもイルクーツクに移りました。このイルクーツクでロシアで初めての「露日辞典」が編集されましたが、その日本語は、南部弁でした。それは彼ら教師のことばが下北半島の村々で使われている南部弁だったからです。

1778年(安永7年)ロシア使節団が、わが国に通商を求めるために根室半島のノツカマップに来ました。この使節団の中に日本語学校教師の二世がいたといわれています。また、函館に来た使節団の中にも二世がいたということです。
日本語学校は、ロシアが、わが国との通商を考えて作った学校だったのです。

2)クナシリ、メナシの乱

北海道と千島列島、それから樺太に漁場を拓くには、長い年月がかかり、アイヌの人たちとの争いも起こりました。争いは初め臼岸(現在の函館地方)で起こり数年後には、瀬棚でも発生しました。悪徳商人と日本人出稼者の横暴が原因であったといわれています。

1669年(寛文9年)5月、シプチャリ(現在の静内地方)で争いが起こりました。
アイヌの人たちが日本商船に火を放ち、その余勢をかって国縫まで攻め上がって来たのです。
津軽藩は、幕府の命令によって、藩兵700名を出陣させ、ようやく鎮めることができました。

1789年(寛政元年)5月2日、国後島で争いが起こりました。アイヌの人たちは、自分たちに親切にしてくれていた古釜布漁場の親方北村伝七を択捉島に移すと、次々に漁場を襲いました。ここで、出稼者30名ちかくが犠牲になりました。
アイヌの人たちは、勢いを得て根室海峡を渡り、メナシ(現在の根室地方)の漁場を襲いました。ここでも40余名が犠牲になりました。犠牲者の大部分が下北半島の村々の出身でした。生き残った北村伝七の墓は、今もむつ市大畑町にあります。

3)津軽、南部両藩の北方警備

1792年(寛政4年)津軽と南部の両藩が、幕府の命令で蝦夷地(北海道)の警備につくことになりました。
ロシアがカムチャッカ半島から、千島列島を島づたいに南下して来たからです。警備は1797年(寛政9年)から毎年続けられ、1822年(文政5年)までに、津軽藩だけでも約9,000名の藩兵を派遣し、多くの犠牲者を出しました。
1802年(享和2年)には、北海道木古内沖で輸送船が難破し、南部藩の藩兵47名が溺死しました。

幕府が長崎で、ロシアの使節レザノフの通商を拒否した1805年(文化2年)、津軽藩は30名の藩兵を初めて択捉島に派遣しました。冬のひどい寒気と疲労のために11名が死亡し、残った藩兵もほとんどが病気にかかってしまいました。1807年(文化4年)4月24日、ロシアの武装船2隻が、突如択捉島ナイホ沖に現れました。翌日ロシアの武装兵が上陸し、米などを奪って家に火を放ち漁場の番人五郎次(現在の川内町出身)左兵衛(現在の大畑町出身)など5名を連れ去りました。このロシアの武装船には、前年、樺太の久春古丹を襲った時に捕えた源七たち4人を乗せていたのです。

4日後、武装船は択捉島紗那の沖に停泊しました。紗那には、津軽藩と南部藩の藩兵を合わせて67名が警備につき、松前奉行支配調役戸田亦太夫が総指揮をとり、間宮林蔵が補佐をしていました。
ロシアは武装兵を上陸させ、大砲を陸揚げし攻撃してきました。戸田は本格的な戦闘を交えて万一敗れた場合、択捉島が占領されることを心配して、藩兵たちに撤収を命じ、自分は責任をとって自決しました。
ロシアの武装兵は米200俵、塩600叺などを奪って番屋、倉庫などを焼きはらい、負傷していた南部藩砲術師大村治五平を連れ去りました。
ロシアの武装船は、さらに5月29日、利尻島沖でわが国の商船数隻を攻撃し、米350俵、大筒(大砲)などを奪い船に放火し、ここで連れ去っていた大村治五平たちを解放しましたが、五郎次と左兵衛は人質として連れ去りました。

4)痛恨の斜里

幕府は、ロシアの武装船攻撃の報告を受けると、津軽藩に対して北方警備の動員命令を出しました。
藩は1807年(文化4年)5月24日、勘定人加勢田中才八郎以下30名を先陣として命じました。藩では、次々に来る増員命令で藩兵が不足し、田中隊は町の職人と村々から集めた農民たちが大部分でした。しかも、出発が命令の2日後でしたので、準備の時間がなく、ほとんどが夏の服装でした。

田中隊は函館に着いた後、室蘭、勇払、千歳、石狩、宗谷と行軍し、7月29日斜里にたどり着きました。全員が疲れ切っていました。弘前から斜里まで約1,000kmの大部分を重い荷物を背負って歩き続けたのです。
斜里には、総指揮の幕府調役並最上徳内と、補佐役の幕府具足奉行組同心金井泉蔵が、すでに着任し、田中隊はその一番隊となりました。

8月1日、津軽藩勘定人笹森寛蔵以下の二番隊が宗谷から到着、8月11日、津軽藩作事受払役工藤文作の三番隊が国後島から到着して、ようやく100名が集まりました。休む間もなく陣屋の建設がはじまり、上長屋と中長屋の建築材料はあったのですが、下長屋、倉庫、剣術稽古所は、木材の伐採からはじめなければならず、さらに土台石は8kmも離れた現在の峯浜から運ぶという難工事になりました。

9月8日、ロシアの武装船接近の知らせが宗谷から届いたので、弁天堂が建っている高台に遠見番屋を急いで建設し、全員が夜を徹して警戒に当たりました。警戒は6日目で解除され工事が再開されました。
強行軍と難工事、武装船の警戒、さらにはひどい寒さと極度の栄養失調で、たくさんの人が病気になり、水汲みや食事の用意にも不自由するようになりました。

医師の石井隆仙も病気にかかってしまい、このままでは、死を待つほかにみちがないと判断した笹森寛蔵は、病人のうち行軍できる者を選んで宗谷に転地療養を命じました。だが、一回目は紋別で、二回目は網走で、そして三回目はどこか判らない雪原で多くの人たちが死亡しました。
生きるみちが閉ざされてしまったのです。オホーツク海に流氷が押し寄せる季節になると、死亡者が増え、正月を迎えてからも死亡者がさらに増えました。
流氷が去り、春を迎えるころには死亡者も次第に減ってきましたが、100名のうち72名が亡くなっていました。そして弘前に帰還できたのは、わずか15名でした。

これらの事は1954年(昭和29年)、賄小頭斉藤勝利の書いた「松前詰合日記」によって、くわしくわかりました。
1973年(昭和48年)7月北海道斜里町が青森県民の協力もあって「津軽藩士殉難慰霊の碑」を建立してくれました。そして毎年7月16日には盛大に慰霊祭を行ってくれています。
この斜里をはじめとして、北海道本島はむろんのこと、国後島にも、択捉島にも、悲運の最後を遂げた多くの青森県人が、今も静かに眠っています。

(2)青森県における北方領土返還要求運動

歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の北方領土の面積は5,003km2で、青森県の総面積9,646km2の半分以上もあります。
また、この海域は日本海流(暖流)と千島海流(寒流)が交わり、豊かな水産資源に恵まれた、世界屈指の漁場となっています。

青森県人は、江戸時代から、この漁場開発のさきがけとなり、かつては青森港と八戸港が北洋漁業の基地として発展しました。しかし、終戦後はソ連の法的根拠のない占拠によって、北方領土周辺海域にきびしい漁業規制が設定され、領海を侵した時は、漁船のだ捕や船員の抑留、さらには罰金刑にされるなど、青森県や東北沿岸漁業県の漁船も被害を受けるようになり、北方領土問題に対する県民の関心も高まって来ました。

1)地方自治体の取り組み

青森県議会は、1965年(昭和40年)3月23日に「沖縄の祖国復帰及び北方領土問題解決促進に関する決議」を採択しました。続いて1967年(昭和42年)10月4日には「沖縄及び小笠原諸島の本土復帰並びに北方領土の返還に関する意見書」を、また1969年(昭和44年)10月7日には「北方領土復帰促進と北洋漁業の安全操業に関する意見書」を、さらには、1976年(昭和51年)10月8日「北方領土の返還並びに北方海域における安全操業に関する意見書」を可決して、政府と国会に、県民の意志を強く表明しました。また、県内市町村議会でも同じ趣旨の意見書が採択されました。

2)県民会議の設立

1973年(昭和48年)、ソ連のブレジネフ書記長の招きで、当時の田中首相の訪ソが実現し、同年の田中首相の来県を機会に、これまで運動してきた「青森県北方領土返還促進同盟」(昭和44年設立)と「青森県北方領土返還貫徹協議会」(昭和46年設立)の二団体が大同団結して、5月20日「青森県北方領土返還促進協議会」を結成しました。

(3)北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
青森県北方領土返還促進協議会
2.設立年月日
昭和48年5月20日