あなたの町と北方領土とのかかわり 和歌山県

和歌山県太鼓橋の写真

和歌山県太鼓橋の写真

北方領土は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島からなる島々です。この島々の面積を合わせると5003km2で、和歌山県(4725km2)がすっぽり入ってしまう広さです。北海道に一番近い歯舞諸島の貝殻島は、納沙布岬からわずか3.7kmしか離れていませんが、これを和歌山県の地理にたとえると、加太から友ヶ島の一つである沖の島までの距離約4kmや、県下で一番長い長峰トンネル(海南湯浅道路)約3.8kmより短いのです。

そこで漁業をすることができるのは、納沙布岬と貝殻島の中間点の1.85kmまでですが、これは、串本節で有名な知床峠より国後島を望む大島と串本の距離1.8kmとほぼ同じです。その中間点を越えるとソ連の監視船にだ捕されて、罰金を取られたり、抑留されてしまいます。しかし北方近海は、魚貝類の宝庫で、先祖代々築いてきた漁場も多く、毎年漁場をめぐるソ連とのトラブルが多発しています。そして、この豊かで、広くて大きい北方領土と和歌山県とは、歴史的にみても深いかかわりをもっています。

(1)和歌山県と北方領土のかかわり

1)栖原氏と北方領土

栖原氏は、摂津国川辺郡北村(現在の兵庫県伊丹市)の出身で、1619年(元和5年)有田郡栖原村(現在の湯浅町)に転住して歴代角兵衛を名乗りました。房総(現在の千葉県)、奥州(現在の東北地方)に漁場を開拓するなど、代々漁業を主業とし、材木問屋や運送業をも営む大事業家でした。
第5代の角兵衛茂勝(1731~1793年)のとき、事業の拡大を図るため、蝦夷に渡り福山小松前町に栖原出身の橋本三郎兵衛を支配人とする支店を設けて、蝦夷と内地の物産交換や運送を行うようになりました。

第6代角兵衛茂則(1753~1817年)に到り、家業はますます盛んとなり、1786年(天明6年)から1789年(寛政元年)にかけて、当時蝦夷を治めていた松前藩から、蝦夷西部から東部にかけての漁場を順次請負いました。また探検家として有名な近藤重蔵の蝦夷地視察報告に基づき、外国人の出没に対応するため、蝦夷を幕府直轄とした1799年(寛政11年)には、幕府から蝦夷地運送方を命じられ、樺太の大泊と蝦夷の宗谷間に定期運行を始めるなど、蝦夷地の運輸業を独占するまでになりました。

第7代角兵衛信義(1780年~1851年)は、1806(文化3年)に石狩地方、1809年(文化6年)には、伊達林右衛門と共に北蝦夷一円の漁場をあずけられ、さらに1815年(文化12年)に高田屋嘉兵衛とともに根室漁場請負いとなり、蝦夷一円にその活動範囲を拡大しました。

1841年(天保12年)、第8代角兵衛茂信(1808年~1854年)は、前述の伊達氏とともに東蝦夷地の択捉、振別、紗那、蘂取の4漁場の請負いを許され、本格的に北方領土へ進出しました。
また、この間篤志家として、貧しい人々の救済や、松前城築城に貢献するなど、多くの実績を残しました。

1855年(安政元年)、日本とロシアの間に択捉島とウルップ島の間を国境とし、樺太を両国雑居地と定める日露通好条約が下田で結ばれ、北蝦夷地に幕府の北会所が設けられるや、栖原家は、その取締役となりました。
同年第9代角兵衛茂寿(1802年~1857年)は、松前藩より沖の口収納取扱方(税務を取扱う所)を命じられ、1857年(安政4年)には、函館奉行所(幕府の役所)から新銭引替(銀行業務のようなもの)を引きうけて、江戸日本橋に支店を置き、蝦夷地の物産販売、照会を兼業しました。

第10代角兵衛寧幹(1831年~1918年),は、1859年(安政6年)に銀行業務のような重要な職務の責任者となり、蝦夷地の金融界で活躍しました。
その後樺太海岸の漁場支配、明治新政府になってからも、数多くの請負い漁場を保証され、公共事業への投資、教育、民生、産業関係に多額の寄附を行うなど、蝦夷地開発のため、貢献しました。

しかし、1875年(明治8年)ロシアとの間に締結された樺太・千島交換条約により、栖原家は樺太における莫大な資産権利を放棄しなければなりませんでした。
それは、祖先以来巨額の資本をかけて開拓した漁場58か所、沿岸600kmに及ぶ広大なものでした。この補償として、栖原家がロシア政府から受けたものは、当時の評価額120万円に対してわずか1万8千円に過ぎませんでした。

しかし、栖原家は東蝦夷を根拠地として、一層事業に意欲を燃やし、西洋型帆船による運輸業への投資や、択捉島の硫黄の試掘、ウルップ島における新たな漁場の開発を行いました。
栖原家代々の角兵衛が、北海道、北方領土の開拓に尽した功績は、実に偉大なもので、その功労により、1881年(明治14年)黒田北海道開拓使長官から賞状と紅白縮緬二疋を贈られ、同年明治天皇北海道行幸の際には、親しく感謝状を与えられました。
このように活躍した栖原氏も樺太・千島交換条約の時の痛手により、その後の業績がかんばしくなく、1895年(明治28年)、三井物産に整理を託して北方の事業から手を引きました。

2)水野忠央の北海道開拓計画

水野土佐守忠央は、和歌山藩の江戸詰家老で、剛毅で内外の大勢をよく知り、皇学の振興や文武を奨励し、藩随一の威勢を誇り、支藩である新宮藩第九代藩主でもありました。また、幕府の井伊大老と共に和歌山藩主慶福を第十四代将軍に推挙した人物でした。

土佐守は、天保年間に水戸の徳川斉昭が蝦夷開拓を幕府に建言して実行されなかったことに着眼して、藩士を蝦夷地の実地踏査に当らせましたが、更に詳しく調べるため1858年(安政5年)4月側用人の飯田氏ほか数人を派遣して捕鯨業の計画・鉱山発掘などを研究させました。

その報告書は現存していませんが、当時としては画期的な内容で、吉田松蔭も「蝦夷開拓の雄略」と賞賛しました。また1869年(明治2年)5月、明治天皇から蝦夷開拓について質問があったとき、水野忠幹(忠央の子)は、「亡父土佐守生存中、蝦夷の捕鯨を開きたいとのことで家来をつかわし調査研究しており、そのままになっております。これからの蝦夷開拓に参考としていただけましたら。」と答えていますから、かなりくわしい計画ができていたものと考えられます。

3)橋本才五郎と北方領土

橋本才五郎(1867年~1945年)は、1867年(慶応3年)東牟婁郡下里村(現在の那智勝浦町下里)に漁師の子として生まれました。
才五郎は、家業のさんま漁をやめ、愛知県の運搬船で働いていましたが、19歳のとき、横浜の港に英国の海獣捕獲船「イーグル号」が入港して、波高い北洋でラッコやオットセイを捕獲する海獣猟の話しをきいて心躍り、矢も楯もたまらず懇願してその船に乗せて貰うことになり、才五郎の海獣とりが始まりました。

当時ラッコの皮は珍重され、毛皮1枚2,000円もする高価なものでした。北洋には、この海の幸を求めてスイス、アメリカ、ロシア、カナダ、イギリスなど各国の船が競って捕獲合戦をくりひろげていました。才五郎は、カナダに渡ったあと、ビクトリアの海獣船に乗り込み腕をみがいておりましたが、東京で漁業会社を経営する青木孝にみこまれ「どうだ日本の遠洋漁猟に君の手をかしてくれないか」と説得されて、故国に帰り、5年間海猟長又は船長として得意の腕を振いました。

1901年(明治34年)「生まれ故郷を根拠地にして」と決意し、郷里の駿田良平、佐藤源兵衛その他有志の協力を得て、東えい漁業株式会社を設立、第一東えい丸(100トン)を操って、遠く千島方面に出漁しました。それから資本金を増資して第二東えい丸(150トン)を建造するなど大成功しました。
勇敢で、無類のラッコ打ちの名手であった才五郎を、世間では「ラッコ、サイベイ・ジャパン」と賞賛しました。
当時、東えい丸の船員は、船長浜竹松、漁猟長橋本才五郎、乗組員は下里出身者20余名でした。

(2)和歌山県における北方領土返還要求運動

1)国民的願望の返還要求

現在、日本が返還要求を行っている北方四島は、かつて一度も外国領土となったことがなく、日本人によって開拓された我国固有の領土です。その返還要求の声は、終戦の年の1945年(昭和20年)12月、故なく先祖代々の土地を奪われた四島引揚者が、やむにやまれぬ帰島の願いを、当時、日本に進駐していたマッカーサー司令部に請願したのがきっかけとなり、全国に広がりました。また国会においても、1973年(昭和48年)に衆参両院で、全党一致の返還要求決議をしたのをはじめ、全国の多くの自治体で、同様の決議がなされ、国民すべての願いを込めた運動となっています。我国の返還要求は、あくまでも国際法に基づいた正当な権利を、機会あるごとに主張し、国際社会のルールにのっとった平和的な運動として展開しています。

2)和歌山における返還要求運動

本県においても、1945年(昭和20年)代の初めから、北方領土返還を訴える人々がありましたが・1955年(昭和30年)代になって、返還要求運動が全国に広まる中、県下の各種団体で署名運動、啓発キャラバン、パネル展などの運動が、活発に行われるようになりました。県議会も、1972年(昭和47年)、1978年(昭和53年)の二度にわたり、北方領土返還要求決議を行いました。

3)県民会議の設立と組織

1981年(昭和56年)1月、国が2月7日を「北方領土の日」と定めたことにより、全国においてさらに返還要求運動が活発になりました。和歌山県でも、今まで個別に運動を続けていた人たちの間に、県民の一人ひとりが、北方領土問題に対する正しい理解と認識を深め、県民総参加の運動とするための組織が必要との気運が高まりました。そこで、今までそれぞれの立場から返還要求運動に取り組んでいた青少年・婦人・労働・経済・農林水産関係県下の53団体が中心となって、1981年(昭和56年)12月に、「北方領土返還要求運動和歌山県民会議」が発足しました。

(3)北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動和歌山県民会議
2.設立年月日
昭和56年12月12日