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北方領土問題とは

北方領土問題とは、第二次世界大戦終戦時にソ連軍が我が国の領土である北方四島(歯舞群島はぼまいぐんとう色丹島しこたんとう国後島くなしりとう及び択捉島えとろふとう)に侵攻し、現在にいたるまでロシアが法的根拠なく占拠し続けていることです。

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北方領土の概要

北海道の東に位置する北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島)は、現在も法的根拠なくロシアによって占拠され続けています。日本の領土であるこの北方四島が「北方領土」です。

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北方四島
ランドサット衛星画像図
画像提供(C)TRIC/NASDA/EOSAT.1992

北方領土の歴史

時空マップ 時空を超えて北方領土を知ろう!

年表の項目を選択し、地図上に表れる ピンアイコン をクリックすると、詳細が表示されます。

北方領土問題にまつわる出来事の一覧です(時空マップ)
場所 出来事 本文
17世紀初 得撫島 松前藩、千島のラッコ毛皮を交易

松前藩の「新羅之記録」によれば、1615年(元和元年)から1621年(元和7年) 頃、メナシ地方(北海道根室地方)のアイヌの人々が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み込み、松前へ来て交易を営んでいたと記録されています。ラッコは北海道本島では獲れず、産地として宣教師の記録にある「ラッコ島」などが知られていました。

1635 北海道 村上掃部左衛門、島巡りして蝦夷地図作成

松前藩ではこの年村上掃部左衛門が蝦夷地沿岸を周る「島巡り」の調査を行い、地図を作成しました。この地図は現在失われていますが、正保元年に幕府に提出された国絵図は、この地図をもとにしたものと考えられています。

1643 得撫島 フリース船長、得撫島に上陸

インドネシアのジャカルタ駐在のオランダ総督が派遣したマルチン・ド・フリース船長が得撫島うるっぷとう に上陸。このときのフリース船長の航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパに紹介されましたが、得撫島はアメリカ大陸の一部だと誤認され、国後島は北海道本島と地続きに描かれるなど、不正確なものでした。

1644 四島 「正保御国絵図」-北方領土が地図に

幕府は「正保日本総図」を作成するために全国に命じて「正保御国絵図」を提出させました。松前藩が提出した国絵図には、「クナシリ」「エトホロ」「ウルフ」など現在の島々を推察できる島名が描かれています。この地図は、1635年(寛永12年)に作成された地図をもとにしたと考えられ、当時すでに北方領土の存在と島名が知られていたことが分かります。

1711 占守島 ロシアが初めて千島列島を探検

コサックの反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の占守しゅむしゅ島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服し、翌年には、幌筵 ぱらむしる島も征服しました。また、1713年には温祢古丹おんねこたん 島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国しました。

1715 四島 松前藩、千島の統治を幕府に報告

松前藩は、この年幕府へ地理風俗等の上申を行い「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩領で自分が統治している。これらの地域には、アイヌ人がそれぞれ住み酋長がいるが総支配は松前藩が行っている。」と報告しています。

1738 四島、色丹島 シュパンベルグ探検隊、日本へ

1738年から39年、ロシア海軍士官シュパンベルグは日本への航路探索のため、千島列島を南下、日本沿岸に到達しました。このことから千島列島が多くの島々からなることが初めて実測され、西欧に知られることとなりました。

1754 国後島 国後島に「場所」開かれる

松前藩は、はじめは厚岸を中心にして交易を行い、キリタップや根室のノツカマップへと交易の場所を広げていきました。この年には、国後島に「場所」を開き、択捉島、得撫島にまで及んで交易を行っていました。

1783 江戸 「赤蝦夷風説考」、ロシアの南下に警鐘

ロシアの千島南下への危惧によって北方への関心が日本国内に広がりますが、その先駆けとなったのが仙台藩の医師・工藤平助の「赤蝦夷風説考」でした。この書は対ロシア策から蝦夷地開拓にまで渡っており、幕府に影響を与えました。

1785 択捉島 最上徳内ら、北方領土を調査

工藤平助がロシアの情報をまとめた「赤蝦夷風説考」を見た老中田沼意次は、蝦夷地に初めての調査隊を派遣しました。翌年の調査隊には最上徳内らも加わり、後に徳内が書いた「蝦夷草子」には、徳内らが国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査したこと、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したことなどが記されています。

1792 根室 ラスクマン日本に通商を求める-北の黒船

エカテリナ2世の命を受けたロシア人、アダム・ラクスマンが、カムチャツカに漂着した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港し、ロシア皇帝の国書をもって通商を求めてきました。幕府は漂流民の送還に感謝しつつも通商は拒否。この「北の黒船」とも言えるロシアの南下は幕府に衝撃を与え、後の蝦夷地直轄につながりました。

1798 択捉島丹根萌 近藤重蔵、択捉島に日本領土を示す標柱を建てる

幕府は、この年4月、180余名の大規模巡察隊を蝦夷地に派遣しました。このとき、支配勘定近藤重蔵の班は、最上徳内らと国後、択捉を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた国土標柱を建てています。

1800 択捉島老門 高田屋嘉兵衛、択捉島開拓に着手

1799年(寛政11年)幕府は、東蝦夷地を松前藩から取り上げ直轄地としました。翌年、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに再び国後島、択捉島に渡り、本土の行政のしくみをとりいれた郷村制をしいたり、漁場を開いたり、島々への航路を開いたりしました。高田屋嘉兵衛が自分の持ち船「辰悦丸 しんえつまる」に乗り、国後島と択捉島の間の航路を開き、択捉島に17か所の漁場を開いたのもこの頃です。

1801 択捉、国後 南部藩兵ら、北方の守備へ

幕府は択捉島以南の島々に番所を設け、最初は南部藩と津軽藩の兵、各100余名が、警備にあたりました。1808年(文化5年)以降には、仙台藩も択捉島、国後島の防備に加わりました。

1807 択捉島 レザノフの部下、択捉島を襲う

1804年(文化元年)、日本との通商を求めて、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが、幕府とラクスマンとの約束を頼りに長崎に来航しました。しかし幕府がこれを拒否すると、レザノフは報復を命じ、部下のフヴォストフらは1806年(文化3年)に樺太、翌年に択捉島などを襲撃し、日本人に暴行を加えたり、日本船を襲って火を放ったりしました。

1811 国後島 ゴローニン事件起きる

1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが樺太西海岸を探査し、さらに千島列島を測量して国後島の泊に上陸した際、南部藩の守備兵に捕らえられ、松前に護送、拘禁されました。ゴローニンを取り戻すために、副艦長リコルドは幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえました。高田屋嘉兵衛は、なんとか日ロ両国の紛争を解決して和議を図ろうと努め、その奔走と斡旋によって、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の交換釈放がなされました。

1855 択捉海峡 日本とロシアの国境が画定

1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督を派遣し、幕府に対し通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。数度に渡る交渉はまとまらず、1855年(安政元年)交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続け、ついに2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。しかし、樺太について合意にいたらず、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとなりました。

1875 千島列島 千島樺太交換条約締結。全千島が日本領に

明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ外務大臣との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、その代りに、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

1893 占守島 郡司成忠、北千島探検へ

郡司成忠ぐんじしげただは、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会ちしまほうこうぎかい を興しました。そして、占守しゅむしゅ島、捨子古丹しゃすこたん 島、幌筵ぱらむしる 島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。

1923 四島 択捉島以南に町村制を施行

得撫島以北の千島列島は、得撫郡、新知郡、占守郡の三郡から成り、根室支庁の直轄地で、町村制は施行されませんでしたが、択捉島以南は1923年(大正12年)4月に町村制が施行され、国後島は国後郡泊村及び留夜別村の1郡2村、択捉島は択捉郡留別村、紗那郡紗那村及び蘂取郡蘂取村の3郡3村、色丹島は色丹郡色丹村の1郡1村となりました。歯舞群島には1915年(大正4年)4月に町村制が施行され、花咲郡歯舞村の行政区域に属していました。

1943 カイロ カイロ宣言、戦後の領土問題を宣言

米英中首脳による対日戦をめぐるカイロ宣言が出され、日本について、第1次世界大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾及び澎湖島、朝鮮、それに「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出さなければならないと宣言しました。千島列島は、樺太千島交換条約によって平和裏に我が国が譲り受けたものであり、日本固有の領土である北方四島は一度も外国領土であったことはなく、「日本国の略取したる地域」にあたらないことは明白です。

1945 ヤルタ ヤルタ協定、米英ソが密約

米英ソがヤルタ協定を締結。同協定では、千島列島をソ連に「引き渡す」としていますが、この協定は単なる連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたに過ぎず、日本はヤルタ協定に参加していないため、この協定に拘束されることはありません。そもそも同協定の内容は「領土拡張をしない」というカイロ宣言に反しており、また米国政府も1956年9月7日のこの問題に関する同政府の公式見解において、この協定に関する法的効果を否定しています。

1945 北方四島 ソ連軍、北方領土を占領

ソビエト連邦は、日ソ中立条約の期限内にもかかわらず、日本に宣戦を布告し、8月9日未明攻撃を開始しました。8月14日日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をしましたが、ソ連軍は千島への侵攻を開始し、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までにことごとく占領しました。

1945 根室 北方領土返還要求運動始まる-陳情第1号

根室町長の安藤石典らは、12月1日連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し、北方領土の返還を求める陳情を行いました。これは北方領土返還要求に関する陳情の第1号で、ここから北方領土返還運動が始まりました。

1947 札幌 北海道議会、北方領土返還請願を決議

7月22日、北海道議会は、北海道の一部を構成していた北方領土の返還を求める道民世論を受けて、「歯舞諸島及び択捉島並びに国後島の日本領土復帰に関する請願」を決議し、マッカーサー元帥に懇請しました。この決議が、全国の都道府県議会及び市町村議会における決議の第1号となりました。

1951 サンフランシスコ サンフランシスコ平和条約結ばれる

日本と、ソ連等を除く48か国との間で「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」が締結。同条約で日本は、千島列島や樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定されていますが、日本の吉田全権は、歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しました。条約起草国の米国も、1956年国務省覚書で北方四島の日本への帰属を明確に認めています。

1956 モスクワ 日ソ国交が回復

「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名され、日ソ国交が回復しました。日本はこの交渉のなかで、北方四島の返還を要求し、米国も支持しましたが、合意にはいたらず、領土問題を含む平和条約締結交渉は国交回復後に継続して行うこととなりました。この共同宣言には、平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことが明記されています。

1980 根室 シンボル像「四島のかけ橋」が完成

根室市の納沙布岬「望郷の岬公園」内に、「四島しま のかけ橋」というシンボル像が完成しました。底辺の長さ35メートル、高さ13メートルのこの像は、北方領土返還を求める国民の強い願いと強い祈りの心を結集し、北方領土が返還されるまでねばり強く返還要求運動を続ける決意を象徴するために作られたものです。北方四島を4つのブロックで表現し、それが連なり合って大きなかけ橋となり、北方領土返還を祈るゲートとして表現されています。

江戸幕府の北方探検に始まり、ロシアとの条約交渉、そしてソ連の侵攻と法的根拠のない占拠にいたる北方領土の歴史を見ると、北方四島が日本の領土であることは明確です。そして戦後元島民の願いから始まった返還要求運動の歩みは、日本国民の悲願として大きく広がっています。

元島民が語る北方領土 歴史の記憶と証言

かつて北方四島に住んでいた17,291人の島民は、ソ連軍の侵攻によって島を追われていきました。苦難の歴史は、島民の記憶のなかに生き続け、その多くの証言によって、私たちは真実の歴史を知ることができます。

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動画 ダイジェスト版元島民の体験談 のサムネイル画像(クリックでモダルウィンドウが開きます)

ダイジェスト版元島民の体験談(モダルウィンドウが開きます)

北方四島の元島民の方々のインタビューのダイジェスト版です

インタビュー内容
  • 島の思い出
  • ソ連の占領
  • 脱出
  • 占領下での生活
  • 引き揚げ
  • 島への想い
動画 山本 忠平氏の体験談 のサムネイル画像(クリックでモダルウィンドウが開きます)

山本 忠平 氏(モダルウィンドウが開きます) 択捉島 蘂取村

昭和10年生まれ(終戦時10歳)

インタビュー内容
  • 引き揚げ
動画 三上 洋一氏の体験談 のサムネイル画像(イメージ画像 クリックでモダルウィンドウが開きます)

三上 洋一 氏(モダルウィンドウが開きます) 択捉島 留別村

昭和12年生まれ(終戦時8歳)

インタビュー内容
  • ソ連の占領の様子
  • 引き揚げ
動画 山本 忠平氏の体験談 のサムネイル画像(イメージ画像 クリックでモダルウィンドウが開きます)

山本 昭平 氏(モダルウィンドウが開きます) 択捉島 蘂取村

昭和3年生まれ(終戦時17歳)

インタビュー内容
  • ソ連の占領の様子
  • 昭和22年 引き揚げ
動画ギャラリーへ
  • 北方館ライブカメラ映像
  • 羅臼国後展望塔ライブカメラ映像
  • 令和4年度 北方領土に関する全国スピーチコンテスト特設ページ

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