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1.日本人が拓いた島々

北方領土の島々が歴史のなかに登場してくるのは、17世紀の初めのころです。蝦夷地を勢力下に置いていた松前藩の「新羅之記録」によれば、ラッコの毛皮や鷲の羽などの交易をアイヌと行っており、それらの産地となる島があることは当時から知られていました。
1644年(正保元年)幕府が「正保日本総図」を作成するために全国に命じて提出させた「正保御国絵図」には、クナシリ、エトホロなど現在の島名と推定できる多くの島々が描かれています。なお、これは1635年(寛永12年)松前藩士による蝦夷地の探検調査に基づくものと考えられています。
また、1715年(正徳5年)、松前藩主は、幕府への上申書の中で「北海道本島、千島列島、カムチャツカ、樺太は松前藩領で自分が統治している。これらの地域には、アイヌ人がそれぞれ住み酋長がいるが総支配は松前藩が行っている」と報告しています。
松前藩は、はじめは厚岸あっけしを中心にして、クナシリ、エトロフなどのアイヌとの交易を行っていました。その後キリタップや根室のノツカマップへと交易の場所を広げ、1754年(宝暦4年)には、国後島に「場所」を設置し、国後島、択捉島に強い影響をもつようになりました。

その一方で、ロシアは着々と極東への進出を続けてきました。ロシア人が初めて千島列島に進出し占守島しゅむしゅとうを征服したのが1711年(正徳1年)のこととされています。また、ピョートル大帝(在位1682-1725)は東方に関心を持ち、その死の直前に海軍大佐ベーリングに探検を命じました。これを受けて探検隊が組織され、そのなかのロシア海軍士官シュパンベルグは日本への航路探索のため、1738年(元文3)には千島列島を南下、翌年は日本沿岸に到達しました。
このようなロシアの活発な南進を知った幕府は、本格的な北方調査に乗り出し1785年(天明5年)調査隊を蝦夷地に派遣し、二年にわたって得撫島までを踏破し島々の事情やロシア南下の実情をよく知ることができました。この調査に加わったのが探検家として知られる最上徳内です。
その後ラクスマンの根室来航や英国船の蝦夷地来航など幕府に衝撃を与える事件が続き、幕府は国防上の必要から、千島・樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)、大規模な蝦夷地巡察隊を派遣しました。このとき、近藤重蔵は択捉島に日本領として「大日本恵登呂府」の標柱をたてています。
蝦夷地を直轄することとした幕府は、すぐに国境を接する択捉島の開発に乗り出しました。近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らとともに択捉島に渡り、本土と同じ郷村制をとりいれ、17か所の漁場を開きました。また航路や港を整備し、南部、津軽両藩から藩士を送り国後島、択捉島の防備を固めました。このように、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められたのです。

正保日本総図より(国立歴史民俗博物館所蔵)
最上徳内  肖像
「大日本恵登呂府」の標柱

2.国境をめぐる争いと取り決め

ロシアの南下政策が強められるなか、様々な事件や争いが起こりました。1804年(文化元年)日本との通商を拒まれたロシア皇帝の使節レザノフは部下に命じ、樺太や択捉島を襲撃し、放火、暴行、略奪を加えました。
幕府はこれに対しロシア船の打ち払いを命じ、1811年(文化8年)、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニン少佐らが捕らえられました。副艦長リコルドは報復として日本船を襲い、幕府御雇船頭高田屋嘉兵衛を捕らえましたが、嘉兵衛の努力によってゴローニンと嘉兵衛の交換釈放がなされました。この事件をきっかけとして、両国は国境を決めるための話し合いを始めることとなりました。

1853年(嘉永6年)、ロシア皇帝ニコライ1世はプチャーチン提督を派遣し、通商を求めるとともに、樺太と千島の国境の画定を申し入れました。長崎での交渉はまとまらず、1855年(安政元年)2月、交渉の場を下田(静岡県)に移して交渉を続けた結果、2月7日に「日本国魯西亜国通好条約」が調印され、日ロ間の国境が画定しました。
この条約によって、両国の国境は択捉島と得撫島の間に引かれ、択捉島から南の島々は日本の領土、得撫島から北の島々はロシアの領土と決まりました。
しかし、樺太について交渉はまとまらず、従来どおり両国民の雑居地として、国境を決めないままとしました。

Column

日本最初の種痘法 中川五郎治

レザノフの部下が択捉島を襲撃したとき、番人小頭だった中川五郎治は捕らえられシベリアに連行されました。何度も脱走を試みますが失敗し、ゴローニンとの捕虜交換の交渉の際にようやく日本に帰りました。ロシア抑留中に医師の助手として働き、種痘法の書を入手し技術を習得。天然痘が猛威をふるう松前、箱館で種痘を施しました。これが日本の種痘の始まりで、種痘法はここから全国に広がっていったのです。

高田屋嘉兵衛  肖像
日本国魯西亜国通好条約

明治政府が誕生し、1869年(明治2年)、北方開拓のために「開拓使」が置かれ、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島は郡制の中に組み入れられました。
しかし樺太では、ロシアが日本の根拠地に迫ってきたため日本人との間に紛争が絶えず、このような現状を打破するため、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ外務大臣との間で「樺太千島交換条約」を締結しました。
この条約によって、「日魯通好条約」で両国民混住の地とされた樺太全島はロシア領となり、ロシア領であったクリル諸島(得撫島から占守島までの18島)が日本の領土となりました。

樺太千島交換条約

その後もロシアの南進は満州や朝鮮などに向かい、ついに1904年(明治37年)日露戦争が勃発しました。戦争は18か月におよび、ポーツマス講和会議で終戦に至りました。交渉の結果、1905年(明治38年)9月5日に「日露講和条約(ポーツマス講和条約)」が調印され、樺太の北緯50度より南の部分は、ロシアから日本に譲渡されました。

▼ もっと詳しく知る
日露講和条約(ポーツマス講和条約)

3.敗戦とソ連の占拠

1941年(昭和16年)択捉島 単冠 ひとかっぷ 湾に結集した日本海軍空母機動部隊は、ハワイ真珠湾に向けて出撃、12月8日太平洋戦争が開戦しました。その開戦に先立つ同年4月、日本とソビエト連邦の両国間では「日ソ中立条約」が批准され、相互不可侵が約束されていました。

ところが、日本の敗色が濃くなる1945年4月ソ連は翌年まで有効な「日ソ中立条約」の不延長を通告。これはソ連がヤルタ会談で秘密裏に約束した対日参戦を意図したものでした。そして同年8月8日、「日ソ中立条約」の期限内にもかかわらず、突然日本への宣戦を布告し、160万のソ連極東軍がソ連と満州の国境を越え、攻撃を開始しました。樺太では、8月11日に約35,000人のソ連兵が北緯50度の国境を越えて侵攻し、約20,000人の日本軍と戦闘になりました。その数日後の8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾。戦争は、日本の降伏で幕を降ろしました。

しかし、ポツダム宣言受諾後もソ連軍は攻撃を続け、8月18日には占守島に上陸し、約25,000人の日本守備隊と交戦。その後も千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までに北方四島をことごとく占領しました。

連合国が大西洋憲章やカイロ宣言で「領土不拡大の原則」を取り決めていたにもかかわらず、翌1946年(昭和21年)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島をソ連領に編入してしまいました。カイロ宣言は「暴力及び貪欲により日本国が略取した」地域等から日本は追い出されなければならない、と宣言していますが、北方四島は、過去一度もロシア領土となったことはなく、この宣言に当たらないことは歴史を見ても明らかです。

島で生活をしていた人々の中には、北海道本島との連絡が途絶えてしまったため不安にかられ、危険をおかして脱出した人もいました。住み慣れた故郷を捨てきれず島に残った人々も、1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)にかけて、強制的に日本本土に引き揚げさせられました。このときから、ロシアの法的根拠のない占拠がつづいています。

4.サンフランシスコ平和条約と日ソ国交の回復

1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和会議において、日本と、ソ連等を除く48か国との間で「サンフランシスコ平和条約」が署名され、日本は主権を回復し、国際社会へ復帰することとなりました。日本は、千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。また、日本の吉田全権は、歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しました。また、米国のダレス全権は、ポツダム降伏条件が日本及び連合国全体を拘束する唯一の講和条約であること、したがって、いくつかの連合国の間には私的了解がありましたが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されないことを表明しました。

サンフランシスコ平和条約署名

また「サンフランシスコ平和条約」への署名を拒否したソ連と個別に平和条約を結ぶため、1955年(昭和30年)6月から翌年にかけて会談や交渉が行われました。米国政府は、日ソ交渉に対する米国覚書の中で「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した。」と日本の立場を支持しましたが、日ソ間で北方領土に関する交渉は難航し、合意には至りませんでした。その結果、領土問題を含む平和条約交渉は正常な外交関係樹立後に行うこととし、1956年10月19日「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名され、日ソ間に国交が回復しました。この共同宣言第9項では、「両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定されています。

日ソ共同宣言署名
  • 令和5年度北方領土に関する全国スピーチコンテスト作品募集