ページの先頭です

ここからグローバルメニューです

クリックでグローバルメニューをスキップ、グローバルメニュー終了地点へ移動します。

グローバルメニューが終了しました

歴史の証言ー元島民が語る北方領土

元島民の皆さんが、それぞれの時代をどんな思いで生きてこられたのか。元島民が語る「北方領土」の記録と元島民の体験談動画(動画ギャラリー)の中から、歴史の時間軸に沿ってご紹介します。

※これらの証言は、1995年と2012年に記録されたものから抜粋して作成しています。全体版は名前をクリックするとご覧いただけます。

  • 戦前の島の暮らし

  • 1875年(明治8年)
    樺太千島交換条約調印
  • 中田勇さん

    中田勇さん

    色丹島 色丹村

    明治38年ころ、私の祖父が色丹島の太平洋側に入植して漁師をしていました。生活は非常に安定していて、自給自足に近く、ノリやギンナンソウ、コンブ、サケ、マス、タラをすべて自分のところで製造し、製品にして出していました。
    電気のない生活、ランプ・カーバイトの灯り、そして医者がいない。私たち兄弟6人は島で生まれ、私は2番目です。産婆さんがいなかったので、経験のあるおばあちゃんが私たちを取り上げてくれました。その代わり、地域の人たちは仲が良く、一つのものでも二つに分け合う生活をしていました。

    元島民が語る「北方領土」中田 勇 へ

    1905年(明治38年)
    ポーツマス条約調印
    明治・大正時代
    和泉公夫さん

    和泉公夫さん

    国後島 泊村

    国後島で3番目に大きな小学校に通いました。生徒は5月ころになる急激に増えます。というのは、夫婦で子どもを連れて働きに来る人がいて、20〜30人くらい、季節ごとの移動があったと思います。高等小学校の時は英語も少々習いました。野球もしました。軟式のゴムボールで、少し叩くと海に飛んでいき、海に入ったらホームランです。一番はじめに行き合って交わす挨拶が「めし食ってきたか?」なんです。部落内の絆は家族同様でした。

    隅田サキさん

    歯舞群島 水晶島すいしょうとう

    私が生まれ育った水晶島は、冬は四方を氷に閉ざされてしまうのですが、早春には福寿草や雪割小桜が咲き、夏はエゾカンゾウの金色が風に揺れ、鈴蘭やワタスゲの白が草原を彩っておりました。アヤメが紫のジユータンを敷きつめたように咲き、白い砂丘には深紅のハマナスが実を結ぶ絵のような楽園でした。

    佐藤良三さん

    択捉島

    私の故郷の択捉島は、ほぼ中央部に北緯45度線が走っていて、それを境にして島の風土が異なります。おおまかにいうと、北はカムチャツカ系の植物、南は北日本系の植物に分かれ、北は白樺、ハンノキ、ハイマツがほば全体を覆い、南はエゾマツ、トドマツの森林があり、そこではマツタケが採れ、香りが非常に良く商品として青森、函館に出荷したこともありました。
    ウルモンベツ沼には、東洋一を誇る紅さけのふ化場がありました。間口13m、奥行き45m、鉄筋コンクリートの堂々たる建造物です。また、ウタスツ湾には毎年9月、10月にかけて回遊してくるマグロの大群があり、最盛漁期には80〜150キロの大物が300本ほど捕れた記録があります。

  • 昭和初期
    1939年(昭和14年)9月
    第二次世界大戦勃発
  • 戦争が終わって

  • 1941年(昭和16年)4月
    日ソ中立条約締結
  • 1945年(昭和20年)
    8月9日ソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦
    福士美和子さん

    福士美和子さん

    歯舞群島 志発島しぼつとう

    父が夜中に「大変なことになった、日本が負けた」と言って、近所に日本の兵隊さんがたくさんいて、うちの倉庫にも泊まっていたので、兵隊さんから聞いたようでした。私は「最後の一人まででも戦って、死んでもいいと思っていたのに」と姉たちと3人で声を上げて泣きました。日本の兵隊さんたちも最後には一人もいなくなり、みんなソ連に連れて行かれてしまいました。

    同年
    8月14日ポツダム宣言受諾
    8月15日終戦
    8月18日ソ連軍、千島列島への攻撃を開始
    富山清人さん

    富山清人さん

    歯舞群島 多楽島たらくとう

    終戦時、島にラジオを持った人がいませんでした。島の駐在所にラジオが1台だけあり、それを聞いて戦争が終わった、日本が負けたんだ、ということ、そのときはもう中には涙を流して、私もそうでしたけれども、このあとどうなるのか、という心配が次に起きてきました。

    市川清壽さん

    市川清壽さん

    国後島 泊村

    私は海軍に入って航空隊の整備兵を終戦までしていました。(復員して根室へ戻ると)ほとんど家が焼けて何もない。空襲でやられてしまって、びっくりしました。「もう島には戻れない」と言われましたが、何とか行く方法はないかと、毎日根室にあった国後の漁業組合事務所に通いました。私は乗っていく船までお願いして頼んで、決めていました。ところがだんだん情勢が悪くなり、島にいる家族から「漁師でないから船もないし、無理をして引き揚げはしない。何年かかるか分からないが、おまえは来るな。おまえは軍人だから、来たら捕まるからダメだ」という手紙が来て、島に帰るのを断念しました。

  • ソ連軍の侵攻

  • 鈴木咲子さん

    択捉島

    戦争が終り、穏やかな島の生活が戻りつつあった昭和20年8月28日、突然ソビエト軍が侵攻して来て択捉島を占領してしまいました。
    私が初めてソビエト兵を目の当りにしたのはその数日後、黒光りした銃を片手に土足のまま私の家に上がり込み、腕時計や万年筆等を探し回って略奪された時でした。ある家では、主人の留守に1時間以上もソビエト兵に家の中を物色され、その家の主婦は恐ろしさのあまり4人の子供たちに晴れ着を着せて死を覚悟する等、ソビエト兵の横暴振りは日常茶飯事でした。このままでは生活が出来ないと、村の代表が日本人の身の安全をソビエト軍に要請した結果、当初のような事は少なくなりました。

    1945年(昭和20年)
    8月28日ソ連軍、北方四島の占領を開始
    (8月28日択捉島上陸)
    8月31日ソ連軍、ウルップ島の占領を完了
    (9月1日国後、色丹島上陸)
    (9月3日歯舞群島上陸)
    9月5日ソ連軍、四島の占領を完了

    鈴木としさん

    色丹島

    ソ連兵が「ムスメ、ムスメ」と言っていたからと、父が娘たち4人を隠す部屋を布団部屋の陰に作り、私たちはソ連兵が来る度にそこに隠れることになったのです。また、空襲に備えて山の方に大きな防空壕を作り、食料品や島民への配給の物資等を入れていましたが、その防空壕をソ連兵に見つけられ、中の物を荒らされ、没収されてしまいました。当時とても貴重品だった乳児用の練乳の缶に銃の先で穴を開け、半分程飲んでは捨てて行くソ連兵の姿を、文句も言えず、ただ陰から見ているばかりでした。

    小田島梶子さん

    小田島梶子さん

    色丹島 色丹村

    ロシア人が来て、家に土足で入ってきて、一番悔しい思いをして、今でも無念と思うことが一つあります。私は子どものときに旗日に国旗を揚げる役目だったのですが、玉と国旗をきちんとしまっておいたところをタンスの引き出しをあけ、日の丸の旗を開いて二つに裂いたんです。私は一番大事にしていたものだから、ふっと出た時に、母がぎゅっと私の手を引きました。あとから考えると、もし出て行って手にしがみついていたら、きっとピストルで撃たれて殺されていただろうなと思います。

    若松富子さん

    歯舞群島 志発島

    砂を噛むような夕食をしていた時でした。近くの西村さんの帳場さんが訪ねて来られました。「ソ連の国に住んでいる事は出来ない。根室へ脱出したいが、船の舵を取ってもらえないだろうか」と言うお話です。大勢の女、子供をどうしようかと、困っていた父は、二つ返事でお引き受けしました。私の父は島に渡るまでは船頭をしていて、「根室海峡なら目をつぶっていても航海できる」と自慢でした。最初は身内とごく近所の人たちだけと思っての脱出行だったのですが、島の人達は皆、夜になっても眠れず、隣近所の様子を伺っていたようで、私たちの脱出行はアッという間に伝わり、船はまたたく間に満船になってしまいました。根室に着いたのは、翌日のお昼頃だったと思います。初めての集団脱出という事で、報道関係の人たちが大勢、取材に見えていました。

    笠井文子さん

    歯舞群島 勇留島ゆりとう

    ソ連のいない隙を見て、娘だけでも根室に逃がさなければと親は考えました。昭和20年9月8日早朝、近所の昆布船にお願いし、私と友人と船長の3人で脱出したのです。その日は朝やけの美しい、波の静かな日で、4日間ほどの怖かったことが嘘のようでしたが、両親や兄とも別れ、生まれ故郷の勇留島も見ることもないと思い、涙、涙で、税庫前の岬も小池浜もかすんで見えたのを覚えています。

  • 1945年(昭和20年)12月1日
    根室町長、連合国に対し北方領土の返還を求める陳情
  • 占領下の生活

  • 1946年(昭和21年)2月2日、ソ連が四島を自国領に編入
  • 昭和21年3月頃と思いますが、ソ連の民間人が入ってきました。開拓団の人たちだったのでしょう。200人もの人が住むようになりました。ソ連人は木材の切り出し、木工場労務、それに漁業者が多く、日本人のする事をよく真似しようとしていました。また、仲良くしたいといいました。仕事は、日本人とソ連人とに分かれて頑張り、食事なども日本のお米や味噌、醤油で味つけしたものを残さず食べていました。

    1946年(昭和21年)〜1947年(昭和22年)
    ソ連軍の占領の下、四島で日本人とソ連の民間人が生活
  • 岩崎忠明さん

    岩崎忠明さん

    択捉島 紗那しゃな

    占領政策の浸透によって一般人が入ってくると、島にはたかだか千人に見合うだけの建物しかないわけですから、そこにロシア人が入ってくると、住宅がないわけです。当然、日本人が住んでいた家を半分に仕切って住み込むとか、必然的に日本人は追いやられることになりました。

    1947年(昭和22年)7月
    北海道議会、歯舞諸島及び択捉島並びに国後島の日本領土復帰に関する請願を決議

    濱田和子さん

    国後島

    ソ連の民間人も島に住み、ロシア人の婦人、子供の姿も見られるようになりました。その頃、我が家にミシンがあった事もあり、ソ連兵のズボンとか、将校の帽子等の縫製をたのまれ、姉はかなり苦労しながら作り上げていたようです。私もマダムたちに頼まれて、和服を利用してドレス等を作り、その報酬として兵隊たちは、当時とても貴重だった石けんや砂糖を持って来ました。

    鈴木咲子さん

    択捉島

    ソビエト人は一般的には”ダンスや歌の好きな陽気な人たち”との印象を持ったものの、日がたつうちに日本人の目の届かない所では黙って物を持ち去ったり、気に入った物があると手に入れるまでねだったりと、村の人々は気の抜けない毎日でした。
    あるとき、ソビエト人は村の食堂でパンを焼く窯がないといって、日本人の火葬場の炉を壊し、そのレンガを持ち出してパンを焼く窯を造ってしまいました。日本人の憤りは大変なものでしたが、その窯で焼いたパンを食べなければ生きていけない状況でした。

    三船志代子さん

    三船志代子さん

    択捉島 蘂取しべとろ

    私の家も半分にして、後ろに一家族か二家族かが入ったんです。そこに「マダム」と呼ばれているご婦人がおり、日中は私どもの茶の間に遊びに来て、パンの焼き方など母に教えていました。初めのころはみな「露助」「露助」と言って怖がっていましたが、私の印象では、みんな仲良く暮らしていたと思います。

    河田ハツさん

    歯舞群島 多楽島

    ソ連軍は島の中心部の古別に進駐して無線局、学校、お寺等、公共物を全部占拠してしまい、頼りにしていた日本の兵隊さんたちは、シベリアの方へ連行されたようでした。
    ソ連軍に占拠された学校などの公共物は、すっかり荒らされ、特にお寺などは数百柱の遺骨がばらばらに散乱していて、とても正気で見ることが出来ない有様でした。夫が遺骨の整理をさせてくれるように交渉し、昭和22年9月4日にようやく許可が出て、翌日夫と義父はお寺の境内に大きな穴を掘って、新しい四斗樽とりんご箱2個に遺骨を納め、骨箱に入った186柱の遺骨と共に埋葬することができました。

  • 島からの引き揚げ

  • 山本昭平さん

    山本昭平さん

    択捉島 蘂取村

    昭和22年8月30日にみんなが叫んできて「引き揚げ命令が来たよ」と、これで命は助かったと思いました。何されるか分からないし、何かしたら「引っぱられる」という恐怖心がありましたから、まずは引き揚げ命令で命が助かったとほっとしました。
    蘂取から出るときは大変でした。島に残してきた飼い犬の1頭が、海に入って船を追ってきました。そうすると他の犬も真似をして自分の飼い主のところへ追ってくる。運転していた機関士がこらえきれずスピードを出すと、それまではみんな悲しさをこらえていたのですが、誰かがこらえきれなくなって大泣きし、船の人たちはみんなそれがきっかけになって一斉に泣き出しました。私も悔しくて泣きました。発動機船の音と、みなが泣く声がトッカリ萌崎の崖に反響し、なんとも言えない雰囲気でした。そういった思いで島を抜け出してくる。そのときに、戦争に負けた「敗戦国の国民なんだ」と痛切に感じました。

    1947年(昭和22年)〜1948年(昭和23年)
    四島から強制的に日本本土へ引き揚げ
    得能宏さん

    得能宏さん

    色丹島

    昭和22年9月下旬ごろ、急にソ連側から「日本へ帰れ、残るんならソ連人になれ」と言われました。私ども一家も母を中心に引き揚げの準備にかかりました。米、コーセン、カンパン、そして母は先祖の位牌、古い島の写真も一緒に。調べられても見つからないよう底の方に。姉は一週間前に死んだ長男の遺骨も、一緒に入れました。

    元島民が語る「北方領土」得能 宏 へ

    河田ハツさん

    歯舞群島 多楽島たらくとう

    昭和22年9月6日の午後4時頃、突然、ソ連軍から帰国命令(強制送還)が出たんです。「明日、志発島に引き揚げ船が来るから馬を降ろし、1時間以内に身仕度をしてこの船で志発島へ行け。もし遅れると一生、北海道には帰れない」と言われ、大急ぎで身仕度をして船に乗りましたが、30余年間も住み慣れた思い出多い故郷の島を離れることはとても辛いことでした。

    配船の手違いから、志発島に船が来たのは10月14日だと思います。色丹や国後、択捉島の人たちが先に乗っていて、仕方なく、ぎゅうぎゅう詰めの船倉の中に入りました。数時間後には根室に着くものと思っていましたが、着いた所は樺太の真岡港(ホルムスク)でした。かつての女学校に収容され、座って漸く入れる位の高さに四段階にして、1坪くらいに仕切った所の2階に7人も入れられ、横になることもできない中で、日本の引き揚げ船が来るのを待ちました。

  • 樺太では丘の上の女学校に収容されましたが、あふれんばかりの引き揚げ者と外でのテント生活。飛び交わされる悪質なデマ。日本人同士が互いに不信感におちいるような言動が出まわり、身を小さくして引き揚げの日を待つ毎日でした。
    10日程を経て、引き揚げ船「興安丸」に乗船、そして3日目の朝、澄みきった青空のなか函館港へ。スピーカーより流れる「リンゴの歌」の軽やかなひびき、頭から足の先まで真っ白にされたDDT、子供心にもやっと日本に着いたという安堵感が広がりました。夜汽車で函館を出発し、10月上旬、約1ヵ月に渡る引き揚げの旅も根室で終わりました。

    1951年(昭和26年)9月8日
    サンフランシスコ平和条約調印
  • 1956年(昭和31年)
    日ソ共同宣言署名
  • 島よ、かえれ

  • 1964年(昭和39年)
    初の北方領土墓参実施
  • 1981年(昭和56年)
    毎年2月7日を「北方領土の日」に閣議了解
    宮下健四郎さん

    宮下健四郎さん

    択捉島 留別るべつ

    ビザなし交流や墓参にはなるべく行くようにし、回数は5〜6回は行きました。時化て上陸できないこともありましたが、島の近くにいって見てくるだけで、いいなあと思います。死んだら、島にお骨を半分くらい埋めてもらいたいと思います。いろいろなことを言う人がいますが、我々の先祖は100年も、150~160年も昔から島に行っていたのですから、四島を一括して返還してもらわなければ、平和条約を結ぶ必要はないと思っています。

    平成
  • 永塚良さん

    国後島

    北方領土は父祖伝来の地であり、私たちはそれを受け継いで生き続けているのです。そんな大事な領土を、ソ連が強制的に四島に住んでいた日本人を追い出していいはずなど、どこにもありません。”島を還せ””島よ還れ”という唱え方は、もう通用しません。ロシア人も人間、仲間である限り、私たちと同様に島を故郷と決めつけているわけですから、こちらからだけの主張には応じてくれません。ただし、島はあくまでも日本の領土であり、主権は日本国であること。この点をロシア人にも充分理解させ、熟知していただかなければいけないと考えています。

    1991年(平成3年)4月
    日ソ共同声明署名
    同年12月ソ連崩壊
  • 村松弥志男さん

    村松弥志男さん

    国後島 泊村

    日本の領土だったことに間違いはないのですから、まなじり決してでも返還してもらいたいです。私が住んでいて、先祖が汗を流してきた宝島なんですから。私は80数才になって、あと何年も生きられないですから、生きているうちに「父さん母さん島が返ってきたから、頑張ったかいあったよ」と言いたいです。

    1992年(平成4年)
    パスポート、ビザなしによる四島交流事業開始
    同年
    北海道により北方四島在住ロシア人の受入れ開始

    若松富子さん

    歯舞群島 志発島

    一世の方々の大半がこの世を去りました。納沙布岬に燃える祈りの灯は、無念の思いで死んでいった人たちの魂の灯です。北方四島は、日本の国にとっても大切な宝の島です。カイロ宣言にも明記されているように、戦勝国の領土拡張は否定されているはずです。これからも、屈する事なく、国際世論に訴えながら返還運動を続けて行かなくてはなりませんし、若い方々にも、引き揚げ者の血の叫びとも言えるこの願いを、引継いでいただくようお願いいたします。

  • 令和5年度北方領土に関する全国スピーチコンテスト作品募集