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ロシアの南進

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1.ロシアの進出

ロシアは、16世紀から18世紀にかけて、国の勢いを伸ばそうと図り、はじめはウラル山脈を越えてシベリアに進出し、南方をめざしましたが、清国に妨げられたため、目を東に転じました。
当時シベリアは毛皮の産地でしたので、これを求めてさかんに東へ進出するようになったのです。

2.フリース船長の記録

1643年(寛永20年)、インドネシアのジャカルタ駐在のオランダ総督が派遣したマルチン・ド・フリース船長が得撫島に上陸しました。このときのフリース船長の航海日誌や地図によって、千島列島の所在が初めてヨーロッパに紹介され、択捉島はスターテンランド(国家島の意)、得撫島はカンパニースランド(会社島の意)と命名されました。

しかし、このとき作成された地図では、千島列島の一部が示されたにすぎず、また、カンパニースランドをアメリカ大陸の一部であると誤認するような有様でした。

フリースの報告を基に作成された地図

3.ロシアの千島探検

ロシアが初めて千島列島を探検したのは、1711年のこととされています。コサックの反乱者コズィレフスキーら2人が千島列島の占守しゅむしゅ島に上陸し、島の住民と戦ってこれを征服し、翌年には、幌筵ぱらむしる島も征服しました。また、1713年には温祢古丹おんねこたん島等を襲撃し、これらの島々を調査して帰国しました。

4.江戸幕府の千島調査

幕府が初めて調査隊を派遣したのは、1785年(天明5年)のこととされています。工藤平助がロシアの情報をまとめた「赤蝦夷風説考」を幕府に提出し、これに興味を持った老中田沼意次が調査隊を派遣しました。1786年(天明6年)の調査隊には最上徳内らも加わり、このとき徳内が書いた「蝦夷草子」には、徳内らが国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査したこと、得撫島に上陸して得撫島以北の諸島の情勢も察知したことなどが記されています。

5.ラクスマンの来航

ラクスマンと松平定信

1792年(寛政4年)、エカテリナ2世の命を受けたロシア人、アダム・ラクスマンが、カムチャツカに漂着した日本人、大黒屋光太夫ら3名を同行して根室に入港し、ロシア皇帝の国書をもって通商を求めてきました。

これに対して、幕府の老中松平定信は、鎖国という国法を変えることはできないとして、松前藩を通して次のように回答しました。

  • ロシアの国書は受けとれない。
  • 江戸への来航は許可できない。
  • 漂流民の送還については感謝する。
  • 通商の申し込みは長崎で行う。

このように、ラクスマンは目的を達成できませんでしたが、日本の様子や幕府の外国に対する方針などが、ロシア本国へ伝えられました。