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得撫島から北の島々の開発

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1.得撫島から北の島々の開発

内政が充実するにしたがって、北の地域の開拓や警備も進められていきました。しかし、色丹島、国後島、択捉島には村役場が置かれ、行政組織もはっきりするようになりましたが、得撫うるっぷ島から北の島々には村は置かれなかったため、開発は遅れがちでした。

このことを心配した郡司成忠ぐんじしげただは、1893年(明治26年)、外国から千島列島を守るとともに、開発を進めようと考え、千島報效義会ちしまほうこうぎかいを興しました。そして、占守しゅむしゅ島、捨子古丹しゃすこたん島、幌筵ぱらむしる島にそれぞれ隊員を上陸させ、越冬を試みました。

しかし、捨子古丹島と幌筵島の隊員は全員病死するという結果になり、北千島の自然の厳しさと、開拓の困難さがわかりました。そして、1904年(明治37年)に日露戦争が始まり、多くの隊員が引き揚げてしまったため、失敗に終わりました。

酷寒の北千島(イメージイラスト)