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元島民が語る「北方領土」
舛潟 喜一郎 歯舞群島(水晶島)出身

歯舞群島(水晶島)出身

毎年、九月二日を迎えれば記憶が強く蘇るのは、ソ連兵が島に侵入した当時のことである。
不便で小さな島であっても、戸数百六~七十戸、人口は六~七百人が住み、楽に生活が出来る所である。島の人達は相互、親睦、友好の念が厚く、島は住みやすく生活が安定していた。
海草(こんぶ)を採取し製品化し、働いていれば、一家の生計が成り立つ、平和な故郷である。
その島が敗戦で国も島も、将来はどうなるのだろうかと思いながら、日々を送っていた。

昭和二十年九月二日ソ連兵が侵入してきた我が島には、軍設備もなく他国のものが島に上陸するとは思いもしなかった。
その上陸地点も、水晶島の三角岬で通常、船の発着など無い所から上陸して来た。
そうして、島民の各家を臨検して行った由、私達は、九月一日根室に配給物資を受け取るために部落の者、五、六名は、島の家を留守にしていた。

翌日、九月二日午後三時ころ根室港で水晶島の多くの人々から「ソ連兵が侵入して来たので、一足先に逃げて来たが、どうしたらいいだろうか」と相談をうけたが思案がまとまらないまま、その時は、その時のことと、その後の行動を覚悟して翌三日の早朝まで帰島する予定で準備し、島に向かった。

島の我が家に着き、ソ連兵の侵入の状況を聞いたところ銃を持って家の中を見回し、別段これという行動もせずに立ち去った、とのことだった。特にその時、我が家には、近所の家族四、五人と我が家族十人が茶の間に一緒にいた。女と子供が多かったので、彼等も無理をせず自分の頭を軽くたたいて、「アメリカン」、「アメリカン」という言葉だけがわかったが、「ない」、「ない」というと、それがわかったのかそのまま出ていった。

ソ連兵達は、一戸ずつ調べ歩いた。ソ連兵達はその日、秋味場部落の火葬する所で夜を明かした。私達が何故ソ連兵を極端に恐れたか云えば、過去のソ連の尼港事件、シベリア戦争過激派事件、と当時新聞報道で、あまりにも非人道的な行動であり、まして敗戦国の我々に対して、どのような行動をとるか、その恐ろしさは言葉で云い表すことは出来ない。

この島に、ソ連兵が駐留すると知らされたので、私達はソ連兵と共に暮らされないと覚悟を決めて、故郷をすてることにし、小船で脱出することにした。
夕方、夜中、早朝と、一週間位は離島間の海は脱出船で大変であった。

島を一巡したソ連兵は、上陸地点の三角岬に来て、佐藤さんの昆布小屋を占拠していった。約一週間程して、私の所にソ連兵が三人来て、手真似をしながら、「明日島を去るから勇留島に送れ」とのことで一応引き受けることにした。(五トン未満の漁船)

ソ連兵の在島中は大きなトラブルも無く、ただ気味が悪かっただけで安心した。明日の勇留島送りを引き受けたのに、突然「息子に用があるから駐屯所まで同行せよ」とのことで、私は明日の人質かと思ったが、命に別状がなければ良と、覚悟を決めて同行したが、三時間位で帰宅が許されたので安心した。万事が戦々恐々として、その日を暮らしていた。

ソ連兵が引き揚げることになり、私達島民は安心した。
近所の人達が手伝いに来てくれ、ソ連兵を送るための船を海に降ろした。
「私と息子の二人でよいから他の者は帰宅せよ」とソ連兵に指示された。

私は二十人程のソ連兵を乗せ、勇留島に進路を向けたが、「そうでない、自分達の指示通りにせよ」とのことでムシリケシに向かった。
その後、ムシリケシでソ連兵を降ろした後、改めて勇留島に向うように指示された。勇留島には約四十分余りで到着した。

一応、仕事が終わったので帰島を申し出たら、「待て」とのこと。暫くし、水晶島からソ連の上陸舟艇が勇留島の税庫港に入港して来た。
勇留島にいた日本守備隊二十名余りと、ソ連兵二十名余りを上陸舟艇に、はしけで送る作業をいい付けられ勇留島在住民と協力して完了した時は夕暮れになっていた。この船の行き先は志発島だ、とのことであったので、私共は水晶島に帰宅することを勇留島の人々に話をしたら、今、勝手に行動を起こしたら発砲されるので、島に泊まった方が良い、とのことであったので、泊まることにした。宿泊場所は清水さんの番屋だ。

水晶島に帰り、落ち着いてから、水晶島のお寺を会場にして、全島集会を開くことにした。一戸から必ず出席してもらい、相談した結果、とりあえず、舛潟が連合部落会長であり、色々な公職を持っているから、島を代表して島民を指導することとなり、私もそれを引き受け、次の日を待つことにした。

あの時、人命と財産を守るのは、自分自身で守ることとして、ソ連兵の動向を見て状況の変化で各自の判断で行動する、と申し合わせをおこなっていた。私は村役場、漁業会、根室支庁、根室町役場の首脳部の方々に島の実情を話し、今後どのようにすべきかと、指導方をお尋ねしたが、適格な助言は無く、実情に添うような暮らしより他ないと判断した。

一ヶ月後、又々ソ連兵の上級士官六、七名と兵二十数名が二隻の船で来島して来た。秋味場の学校に我々島民を集め、通訳将校を通して話があった。 一、在島民がソ連軍に何か申し出をする時は舛潟を通して申し出ること。二、必要があれば、ソ連軍は舛潟に用務を伝える。この二点であった。

さて今後、ソ連兵からどのような注文が出されるかと心配しつつ様子を見ながらの生活が始まった。
ついに、ソ連兵が水晶島に駐留することになり、ソ連兵二十名余りが駐留を開始した。そのソ連兵も四月には国境警備兵と交代したため、もう我々の島と根室との航行は完全に断たれてしまった。

その間、島の住民は命がけの行動で島を去って行き、昭和二十一年四月末には二十四戸の家族だけが残った。さて、これら家族の生活物資はすべて消費し、食糧は、島で出来る野菜だけで馬鈴薯、菜っ葉、大根、人参、鶏卵くらいのものだった。

昭和二十二年九月中旬、引き揚げ船が志発島に来ることになり、私共は志発島に移動させられた。
さあ待つこと暫く、その間、男たちは、牧草刈りで何日かを過ごした。
約一ヵ月近く待って、引き揚げ船が来島、大型汽船のため志発島西前北浦の沖に停泊しているため、この間を志発西前缶詰所所有の漁船で船送り、荷物と一緒にウインチで吊り上げられて船内へ。

私共は最後に乗船したため居場所も悪く、引き揚げの仲間も、早く乗船した者に対して同情も、なにもなく、わがままな場所の取り合いであった。
仕方なく、我々も「命だけあれば」と我慢するしかなかった。
船は一万トン程の優秀船らしいが、管理するソ連人は、船内の大混乱にも我関せずの態度であった。
順調に航海し、志発島、国後水道を通過し、樺太岬も過ぎ、樺太西の真岡港に着く。すぐに上陸出来ると思っていたが、命令は三日間、そのまま船泊りとなり、島から数えると、五泊したことになる。

いよいよ上陸、ソ連の案内で、元小学校の宿舎に入る。
これもお粗末なもの、ただ生きるだけの扱いであり、早く祖国に帰りたいの一心であった。
二十日間あまりの宿舎生活で、みんな一種の栄養失調状態になる。

ようやく解放されることになって、樺太真岡港出港は十一月二十二日と記憶している。二日後、函館港へ入港したが港内に一週間停泊した。
のち、浅野寮に各々仲間と落ち着き、先行きの切符や、定められた食糧(乾パン)等を分配してから、みんなの無事を確認し、再会を約束してみんなと別れたのが昭和二十二年十二月一日である。