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元島民が語る「北方領土」
鈴木 とし 色丹島出身

色丹島出身

私の一生忘れられない出来事です。思い起こせば、もう五十年になるんですね。当時私は二十四才、色丹で小学校の教師をしておりました。一年生から四年生迄四十人程の子供達を受け持っておりました。

終戦の年の九月一日だったと思います。その日は秋晴れの、とても良いお天気でした。登校途中、ソ連の軍艦が入江に悠々と入ってくるのが目に入り、急いで学校に駆け付けると、子供達が大騒ぎをしておりました。ソ連兵が小船に移り岸辺に向って来る様子がグランドからはっきり見えていたのです。「先生!ロスケ、学校に来るの?」「鉄砲で撃たれない?」、子供達は怯えた顔で口々に聞きます。「日本軍の武装解除に来るのだから、学校に用はない筈だし、先生が付いているから大丈夫よ」と言いながら私も不安で抑いっばいでした。

やがて授業が始まり、何気なく山の方に目を向けると、ソ連兵が大勢山に登って行くではありませんか。あっという間に機関銃の台座が並ベられ、銃口がこちらに向けられているのです。身の毛がよだつほどの恐怖感に襲われました。「落ち着いて!」と自分に言い聞かせ、「皆さん、もしかしたらソ連兵が学校に入ってくるかもしれないけど、いつもの通り先生の方だけ見て勉強していれば大丈夫だから、絶対泣いたり騒いだりしない様にね」と子供達に言いました。

しばらくして、ドタドタと大勢の靴音がしたと思うと、ガラッと戸が開き、銃口が突き出されたのです。そして、銃や軽機関銃をこちらに向け、ソ連兵が次々と教室に入って来ました。全身の血が引いて行くような思いの中で、子供達が恐怖に怯えた顔で一斉に私を見つめるのがわかりました。「この子供達を守らなければ」という思いだけが頭中をぐるぐる回り、体が震えました。幸いな事に子供達は、私との約束を守り、誰一人として悲鳴一つ上げません。

まず気を取り直し、両足に力を入れ、深く呼吸をしました。そして、ソ連兵を無視して授業を続ける事にしました。やがて腰にピストルを下げた隊長らしい大きな男が、つかつかと私の前に近寄り、何か言いながら手を差し出したのです。大きな手には赤い毛が生え、顔を見ると青く鋭い目が私を擬視しているのです。ぞっとする程の恐怖でした。でも手を出しているのは挨拶なのだなと思い、敵意を与えないようにむりやり笑顔を作り、「こんにちは、ようこそ」と震える手を出し、握手をしたのです。するとその男も満足そうににっこり笑ったのでした。

ソ連兵にしてみれば、日本兵がいるかもしれないという緊張感から解かれたのでしょうか。穏やかな顔で子供達を見渡していました。私はドキドキする胸を押さえながら、やりかけの算数を再開する事にし、黒板に問題を書きました。前に出てきて答えを書く子も緊張し、おどおどしていました。そのせいかどうか答えを間違えて書いた子がいたのです。すると突然、一人の兵士がにこにこと何か言いながら答えを正しく書き直したのです。私はその時、算数は何処の国でも同じなんだなと何故かほっとしたのを覚えています。その時、その兵士に頭を撫でられた子は、頭が針で刺されたようにチクチクと痛かったと言っていました。余程恐ろしかったのでしょう。彼等は二十分程いたでしょうか、何事もなく出て行きました。その日は授業も早く終らせ、役場や組合の女子職員と一緒に、男の職員に付き添われて帰宅しました。

ソ連兵達は家にもやって来て、家中を土足で歩き回って行った後でした。祖母は怯えた顔をしながらも、「今度来たら”靴を脱げ”と言ってやる」と怒りながら畳を拭いていました。それからがまた大変でした。ソ連兵が「ムスメ、ムスメ」と言っていたからと、父が娘達四人を隠す部屋を布団部屋の陰に作り、私達はソ連兵が来る度、そこに隠れる事になったのです。当時私の家は結構大きく、旅館、料理店、雑貨商等を営んでおりました。また、空襲に備えて山の方に大きな防空壕を作り、食料品や島民への配給の物資等を入れておりました。ところがその防空壕をソ連兵に見つけられてしまい、中の物を荒らされ、没収されてしまったのです。その頃とても貴重品だった乳児用の練乳の缶に銃の先で穴を開け、半分程飲んでは捨てて行くソ連兵の姿を、文句も言えず、ただ陰から見ているばかりでした。本当に口惜しく、憎らしく思ったものです。
何日か経ち、隠れてもいられなくなりましたが、危害を加えられたりする事はありませんでした。それからソ連兵達との共存生活が二年間も続く事になるのです。

教師だったせいなのか、司令官の命令だと言っては連れて行かれ、日本兵の居場所を何度も詰問されました。言わなければ本国に連行して調べるなどと嚇されたりもしました。乱暴だけは受けなかったのがせめてもの救いでしたが、緊張のし通しで、気持の休まる事はありませんでした。
そして、やっとの思いで各自リュックサックを背負い、家族全員が根室に引き揚げてこられた時は、本当に嬉しかったです。地獄から這い上がって来た様な思いでした。

それからの生活もまた大変でしたが、ソ連の監視から逃がれられたという解放感が、私達に希望を与えてくれたのだと思います。身も心も軽くなった思いでどんな困難も乗り切って行ける自信が湧いてきたのです。
ただ、亡くなった両親にしてみれば、三十年もの長い年月、なりふり構わず働いて築いた財産を、島を追われるという形で全て失ってしまったのですから、どれ程無念だった事と今更ながら胸が痛みます。
一日も早く島が還る日を祈りながら、ペンを置きます。