ページの先頭です

ここからグローバルメニューです

クリックでグローバルメニューをスキップ、グローバルメニュー終了地点へ移動します。

グローバルメニューが終了しました

現在のページは

元島民が語る「北方領土」
鈴木 咲子 択捉島出身

択捉島出身

戦争が終り、穏やかな島の生活が戻りつつあった昭和二十年八月二十八日、突然ソビエト軍が侵攻して来て択捉島を占領してしまった。一番北にあった蘂取村には、九月も半ばを過ぎた頃入って来たが、それまでに様々な噂が村に広がり、中でも若い娘は連れて行かれるらしいと云う話に年頃の女性は、頭髪を短く切ったり丸刈りにしたりして、男性の洋服を着て暮らしていた。実際ソビエト兵に射殺された島民もいたと云うことで村の人々は非常に不安をいだいていた。

ソビエト軍が来るという日、村では子供を戸外に出さないよう通達が出され、家の戸は締め切っていた。私の家は、村の入り口近くにあり、祖父母と両親と私の、家族五人で暮らしていた。

その日は祖母と私の二人だけが奥の部屋に居るように云われて、長い時間息を潜めていると、やがて数頭の馬のひづめの音が聞こえてきた。家の前にその音が差しかかったとき、ソビエト兵が家の中に入ってきたらどうしようと思い、恐ろしさの余りのどがカラカラに乾いてしまい傍らの祖母に「ばばちゃん、おっかないね」と云うと、祖母は黙って私の手を握り締めてくれた。私が初めてソビエト兵を目の当りにしたのはその数日後、黒光りした銃を片手に土足のまま私の家に上がり込み、腕時計や万年筆等を探し回って略奪された時だった。ある家では、主人の留守に一時間以上もソビエト兵に家の中を物色され、その家の主婦は恐ろしさの余り四人の子供達に晴れ着を着せて死を覚悟する等、ソビエト兵の横暴振りは日常茶飯事だった。
このままでは生活が出来ないと、村の代表が日本人の身の安全をソビエト軍に要請した結果、当初のような事は少なくなっていった。

官庁は閉鎖され、本土とのつながりは断たれてしまった。
村に大勢残っていた元日本軍の兵隊は、ある日を境に忽然と姿を消していた。十三歳以上の日本人は男女を問わず、魚を扱う工場や漁船に乗り組み働くよう命じられ、早朝から夜中までひたすら働き続けた。民間人も村に入ってきたが、ソビエト人は家を建てずに日本人の住んでいる家を仕切り、そこで生活を始めた。一般的には”ダンスや歌の好きな陽気な人達”との印象を持ったものの、日がたつうちに日本人の目の届かない所では黙って物を持ち去ったり、気に入った物があると手に入れるまでねだったりと、常識が通じないようなところがあって、村の人々は気の抜けない毎日だった。

一年程過ぎて日本人が食糧不足になっていき、時計や食器類、着物等と食料品を交換して補うようになった。ソビエト人の家では食糧品と交換した母の袋帯がベッド・カバーに、私の振り抽がカーテンに仕立て直されて使用されていた。

学校は体育館を仕切りソビエト人の教室として授業をしていたが、窓ガラスが破れ、風や雪等が吹き込み寒さに耐えられなくなると、日本人の教室と取り替えてしまった。地理や歴史、道徳は禁止され、許された音楽でも「海」の唱歌の中で「行ってみたいな、よその国」この歌詞の部分は侵略を意味するので塗りつぶすようにと命令された。日本人の校長先生は辞めさせられて魚を扱う工場で働かされていた。

ある時は、奉安殿が荒らされていたり、耐えがたいことがある度に「日本は戦争に負けたのだから我慢しよう」と口にされていた担任の先生の言葉が今も胸の奥に残っている。又、ソビエト人は村の食堂でパンを焼く窯がないといって、日本人の火葬場の炉を壊し、そのレンガを持ち出してパンを焼く窯を造ってしまった。日本人の憤りは大変なものだったが、その窯で焼いたパンを食べなければ生きていけない状況だった。

昭和二十三年十月、強制送還の命令が出された。身の回り品だけを持ち、岬を二つ越えた集合場所までソビエト兵にマンドリン銃をつきつけられながら歩いた。荷物と一緒にウインチで吊り上げられて船底に入れられた。甲板に乗船させられた人達は寒さの中雨ざらしで、トイレから溢れ出た汚物が雨水によって移動するという大変不衛生な環境に置かれていた。何日もかけて樺太に上陸した。

ソビエト側の荷物の検査で、指輪、時計、カメラ等没収されたり、されなかったり、検査するソビエト人によってまちまちだったが、紙に文字が書いてあるものは一切許されなかった。見つかると場合によってはスパイ容旋で厳しい取り調べを受けると云われた。

そうした中を大家族にも拘らず、蘂取村の村長は骨箱を一つだけ大切に胸にだいて検査を通り抜けた。その骨箱の中には蘂取村の戸籍簿の原本が忍ばせてあった。戸籍簿がどんなに貴重なものか、元居住者であれば誰もが認めるところである。村芝居の歌舞伎で千両役者だった村長が、村人たちの為に命をかけて最後の芝居を演じてくれたと、今も語り草になっている。

真岡の収容所での生活は悲惨なものだった。ドアもないトイレで目がくらむ程深い便槽の中に何人もの子供が落ち、上に引き上げても助からない方が多かったと聞かされ、一人では決してトイレに行かないようにと親に云われた。

食事はコーリャンのお粥と鰊の塩漬と云う内容で、子供達は栄養失調に陥り歩くことも出来なくなっていった。乳児の遺体を背負ったまま乗船した母親もいた。 函館に上陸し子供達を入院させたが手遅れのため六人も七人も命を落した。そしてその数は半年後、一年後と更に増えていった。

生まれ故郷をソビエト軍に占領されて五十年。領土解決の糸口さえも何故見出すことが出来ないのか、返還運動の続く中で虚しさを覚える時がある。しかし、ふるさとの島に眠るみ霊。強制送還の最中、今の世の平和を知らずに亡くなった人々や、島の返還を心の支えとし、苦労を重ねた末、亡くなった人々のことを考えると、私たち残された者は、返還運動を疎かにしてはならないと思いを新たにする。

北方領土返還要求運動は私にとって供養のひとつかも知れない。