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元島民が語る「北方領土」
高橋 孝志 歯舞群島(勇留島)出身

歯舞群島(勇留島)出身

戦後半世紀を過ぎなんとす、今日でも、あの日、あの頃、当時十二才の少年の脳裏に焼き付いた辛苦の想い出は、走馬灯のように浮かんでまいります。
昭和二十年八月十五日が終戦で、その翌月の九月二日、この日より一変して、島民の身の上に敗戦の憂き目を背負わせられたのであります。
当時の少年の目で見、体験した事は、あまりにも多く、語りつくせぬものであり、縮小し、記して置きます。

昭和二十年九月二日正午頃、勇留島西側沖にソ連軍船が停泊しており上陸艇で砂浜湾より上陸し、銃剣を持った兵隊が数十名、列をなして東側地区まで行進の途中、民家に土足で入って来て何か物色したりして、私の家にも三、四人入って来て部屋に居た家族を見て出て行きましたが、殺されるのではないかと思った程、怖かったです。
次の三日には、島の中央部の税庫前湾に上陸艇が入港し、小池浜に居た日本の兵隊さんを乗せてソ連兵も一緒に出港して行きました。

その後、島民の主な人々が学校に集まり今後の事について話し合いをしたそうですが、情報も不足なために、何も決め手がなく、機械船を持っている人々は、根室へ行って来る事となり、何度か情報入手に行きました。ソ連人が島に来て、住むことなどの情報は聞かなかったので、この年はそのまま冬を迎えた。十二月から湾内は氷が張り出し、一月には流氷と張り氷で内海一面氷に覆われて、三月末でなければ海が開かない時代でしたので、ゆったりとした気持ちで過ごして居た様です。

四月に海開けと同時にソ連兵が各島に入って来て兵隊も駐屯した島もあるとのことで今後、島々がソ連に統括されるとの知らせに、島民は狼狽し、深刻な状態になった様でその後、何日もせぬうちに、ソ連の警備艇が停泊し通訳と数名のソ連兵が上陸し、各家庭から働く若者を強制的に駆り出し、十六才から、三十才位までの働きざかりの男女を勇留島から十数名を連れ出し、色丹島や志発島で労働に従事させられた様です。
この時点から島民の脱出行が始まり、時折り警備艇が見廻りに来るだけでしたので、夜にかけての脱出が多かったようです。

約半月余りして勇留島にも(五月初旬)ソ連の沿岸警備隊が税庫前の学校に駐屯してしまい、知らずに根室から来た船もありましたが、急いで帰ったと聞いております。この時より本道との連絡はプツリと切れ、ソ連の統制のままに拘留的生活が始まったのです。

島民も各地に散在していたので、ソ連軍の指示で中央の税庫前に集結させられ、私達家族も山坂越えて移り住みました。
その時まで残って居た島民は三十数名、九世帯のみで、少ないので驚きました。
私達は兄等二人が労働に引っ張られ、脱出せずに居たので同じような家庭もあり、不思議に思ったものです。

その後、隊長の命令で漁船や小舟も皆、陸揚げして、バラ線で囲み、歩哨を置き、監視され舟を出せなくなり、困った状況に陥り、食糧不足の上に魚も獲れないのではと、主な人達が隊長に願い出て間もなく了解を頂き、一艘の小舟を共同で使用することが出来、喜んだものでした。

そうして一年以上過ぎた、昭和二十二年八月中旬、隊長から、「皆に話がある」と、父達が集められ「三・四日のうちに志発島に島民全員引き揚げる様に」と知らされ、追いたてられるように荷物をまとめ、着の身着のままで荷物は背負う物と手に持つ物しか持ち出せず、家財その他を捨てて故郷を離れたのです。
志発島では、西前小学校に収容され、他の島の人達も一緒に、数十名が自給自足の生活を助け合いながら頑張って暮していたものです。

約一ヵ月も過ぎた頃、九月下旬に志発島西方沖に大きな引き揚げ船が停泊し、全員乗船の用意をし桟橋まで二キロ程を行列になって歩き、運搬船(漁船)に乗る頃はもう夜になってしまい、暗くて寒く、それに引き揚げ船は大きくて甲板まで自力では無理なので、荷物と一緒にクレーンで吊り上げられて乗船させられたものです。深い船倉に入れられ場所を与えられて休むことになり、翌日、この船はソ連の貨物船で、今樺太に向って航海していることを知り、子供ながらも不安でなりませんでした。

約一週間程で樺太の真岡港沖に停泊し、入港を待っていましたが、そのうちに嵐に見舞われ、船はすごく揺れ出し、外海へ出て航行しながら、一週間以上も海の上で、船内の引き揚げ者一同、疲れきった頃、ようやく入港することが出来ました。

船内では食事も満足にとれずに過ごした人々が多く、栄養不足で体力は衰え、病人も多数居たため、下船しても歩行が出来ない者がたくさん居て、元気の良い者が、先に収容所に荷物を運び、その後、皆で背負ったり担架を仮に造って運んだりして、夜遅くまでかかり、全員収容所に入ることが出来たものです。

その収容所も真岡女子中学校とのこと、山の中腹にあり、高台なので大変な思いをしたのです。収容所は周辺をバラ線で囲まれ柵をし、出入口には歩哨の兵隊が居て柵の外へは出られず、便所は学校より上の方に仮設のものが造られ、用便のたび坂を登り下りしなければならず、老人や病人は、どんな思いで過ごしたのだろうと案じて居たものです。この時は十月中旬ですから樺太は寒くなって来て居り、楽しみは食事の時だけで、毎日支給されましたが、パンにスープと同じ物ばかりで、時間に間に合わない時はそれすら当たらず、私達は見張って居て連絡を皆さんにしたものです。当時の色々な情報を聞いては大人達に知らせたりしてました。でも毎日の様に死亡者が運ばれて行くのが見え、島の知人も真岡で亡くなり、大人達が泣きながら、毛布に包んでいるのを見て、つらい思いをした記憶が忘れられません。

栄養失調と肺炎の病気が多く、薬も無く看護も出来ない状況ですから、病気になったら死より外にないものと考えるしかない状態でした。
頑張ること以外なし、と毎日思いながら収容所生活をして、約一ヵ月が過ぎ、日本からの引き揚げ船が入港して「この収容所の島民は、順次、乗船する様に」との知らせに、大人も子供も皆で喜んだ,この時の皆さんの笑顔は忘れられません。皆、無我夢中で荷物をまとめ、足取りも軽く港に向ったものです。

日本の引き揚げ船に乗船して、本当に明るい安堵の顔々が目に浮びます…「良かったなー」と云う声が聞かれた時は、意味深い感じで受け取れ、船内での食事でも、「美味しかったなあー」など、この様な言葉が多く聞かれ本当にあの収容所生活の苦しさからようやく解放された気持が読み取れました。真岡を出港し、函館に着くまでの短かった事、早かったですよ。

日本船での航海中に考えた事は、ようやく助かった… と島を追われ収容生活も二ヶ月程度の短期間であったため救われたのだと感銘し、感涙したものです。そして函館から根室に向う車中で、私達引き揚げ者は裸一貫で根室に着くが、この寒空でどんな生活が始まるのだろうと、子供心にも深刻になったのでした。まして親達の当時の心境はどんなだったろう。複雑きわまりなく言葉では表わせないものであったことだろう…。

以上で、引き揚げ生活が終了となり、根室に無事到着。昭和二十二年十一月三十日午後五時頃と記憶しております。その日より無からの生活が始まり、今日まで五十年余を過ごし、無事、常道を歩いてくることができたのも、友人、知人のおかげと深く感謝致しております。

今では島民も二世が多く、また引き揚げ当時を知る者も半数にも満たないのではと思います。
私は後世に語り残す考えでおりますが、いまだ島は還らず、生きているうちに島に行って、ゆっくりと自分の足で全島を歩きたいと願っております。
戦後はいまだ終らず……。この気持を何処へぶつけたら良いのだろう。