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元島民が語る「北方領土」
木根 繁 色丹島出身

色丹島出身

私が色丹島又古丹をソ連軍の強制送還により追われ、北方領土の島々を廻り樺太経由で函館に上陸したのは、昭和二十二年十一月二日で父此吉(昭和六十年七十九才にて他界)母ソメ(明治四十五年生れ)と十才の私の三人で、ズック手製のリュックサック一個を背負ってでありました。

私の家の色丹島での仕事は、根室に本拠を置き、五月から十一月迄の間、色丹島又古丹にて、本家(長兄)である喜代松の経営するたら釣漁等に、父(三男)と母が共に従事しておりました。従って函館上陸後は、迎えに来た長兄と共に根室へ帰って来ました。幸いにも根室の家は、空襲で焼けずに残っておりました。その小さなボロ屋に、親戚と二世帯が入り、根室における生活がスタートいたしました。

リュックサック一つずつで根室へ引き揚げた私の家では、何の仕事も出来る訳もなく、本家の喜代松さん、二男の寅次郎さんと父此吉の三人で知人の協力をいただきながら、小型動力船を用船し、ふじこ・ほたての桁曵漁に三人で乗り組んで出漁しました。父達にとっては無から新規の漁業であり、日常の衣食住をも含め、今では言葉に表わせない、大変な苦難の毎日であったと思われます。

一方、私は小学校二年迄通っていた花咲小学校へ再入学のため、母と共に学校へ行きました。年令(十才)からして五年生へ編入出来るものと思っていた私に、当時の川野上彰先生は、島での通学の様子を聞き「ソ連軍が来て、しばらくして学校へ行けず一年半位は家で遊んでおりました」と答えると、「それでは気の毒ですが一年だけ遅らせて四年生へ編入になります」といわれました。私は前述の通り一・二年を通った学校なので、四年生への編入は耐えられず、「何としても五年生へ編入させて下さい」と真剣に頼みました。川野上先生は少し話し合いの後「但し学力がついて行けなかったら、いつでも四年生へ落第させるが、それでも良いか」の厳しい条件付きで認めて下さいました。

子供心にも五年生へ編入する事が出来たうれしさと同時に、何が何でも一生懸命勉強し、先生の期待を裏切れないと思ったものでした。
以来私には、同級生に追いつき追い越せのガリ勉の精神が養われ、又現実に六年卒業の時は先生から「良く頑張って勉強した」とおほめの言葉をいただいた事は忘れられない感激で、現在迄の私の心の支えとなり、川野上先生には大きな恩を受けました。

本家の船に従事していた父の仕事も、大変な苦労の中、たらば蟹刺網からさけます流網へと変わって行きました。この後、昭和二十七年より、友人の勧めもあり、父も本家の援助を受け独立し、かれい刺網、さけます流網を行う事になりましたが、父にとっては、独立新規着業の苦難の道のりが再び始まりました。根室の大半の漁業者が北方領土を追われ、生きるために漁業生産に意欲を燃やしているこの頃、根室の漁業史で忘れる事の出来ない、五・十の大海難事故が昭和二十九年五月十日に発生し、さけます流網漁業で多くの尊い生命と財産が失われました。この時私の家で用船していた船は、前日に流網の棒巻きトラブルにより、花咲港へ入港中で父は難を逃れられました。

父の独立は私の根室中学卒業の頃であり、中学時代は遅れを取り戻すための勉学に励みましたが、反面スポーツ面では島での頃から小・中学校とあまり知らず、参加も出来ず残念な思いをしております。

高校進学についても、父、母共に零細漁民として懸命に働いている姿を見て悩みましたが、両親の温かい許しにより、根室高校へ進学する事が出来ました。高校時代は、家の漁業の都合で時期的に花咲港よりの汽車通学、また、漁の忙しい時には朝・夕に漁の手伝いがあり、今思い返すと、クラブ活動、スポーツ等にはあまり参加が出来ず、楽しい高校生活ではなかった様に思います。次の大学進学についても、当然ながら考えられず、家業の手伝いを覚悟しておりました。卒業間近になり、父より「金のかからない国公立なら行っても良い」の許しが出て、喜び勇んで北大を受験しましたが、私の入試勉強不足で力及ばず落第、くやしい思いの中、宅浪し、再受験を決めた所、五月に道立水産技術講習所(余市町・道立水産試験場内)の募集を知り、受験し入所いたしました。水講での二年間は官費で、先生、友人、余市の土地柄と恵まれ、水産全般の勉学にもはげみ、私の楽しい青春時代でありました。卒業後は本来ならば水産技術改良普及員として勤めるのでありますが、私は許しを得て家に帰り、漁業後継者の道を選びました。

当時の家の漁業は十六屯型漁船で、現在と同じ、さけ、ます流網、さんま棒受網を営んでおりました。私も父の教えを受け、一人前の漁業者となるべく努力をして来ました。この間昭和六十年には、本家の経営であった木根漁業(株)は、経営不振から漁業廃業となり、また、島よ還れ、に皆さんと共に大きな願いをかけ、三代目根室色丹会会長をつとめさせていただいた父此吉も、この年に七十九才で他界いたしました。

私は父の後を受け漁業経営を続けております。さけます流網漁業は平成四年より、公海沖獲全面禁止となりロシア二百カイリ内の合弁操業となり、年々の規制強化と入漁料のアップ、更に魚価安で大幅な赤字経営です。兼業のさんま棒受網も魚価安で、漁業での生き残りをかけ苦しい経営が続いております。

島を追われ、今に至る私の道のりは、紆余曲折があり、決して平坦なものではありません。まして色丹島又古丹で当時動力船三隻でそれなりの漁業を営んでいた、木根家全体にとっての戦後五十年を思う時、筆舌に尽くせない、やり切れない思いがあります。
テーマにそって書き綴っているうちに、全くの自分史になってしまいましたが、北方領土五十年史の参考になれば幸いと願いペンを置きます。