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元島民が語る「北方領土」
森崎 エツ 択捉島出身

択捉島出身

”終戦”この言葉を耳にしたのは、旧別海村西別でした。私は西別駅に並んで根室行きの切符を買うため、何時間も待ち、ようやく購入し、自宅に帰ったのが午後一時すぎ。家に入ったところ父と兄の顔が悲そうにくもり、ただならぬ気配を感じました。「戦争が終った」と父の短い言葉でした。

私は「ああ、よかった。これでもうつらい悲しい戦争がなくなり、安心して生活が出来る。今夜から燈火管制をしなくてもよし、防空壕に避難せずともよし、こわかった軍の制圧などからも、たった今解放される」という事に何よりも強い感動を覚えました。それというのも、私の家は択捉島の天寧で、陸海軍の基地だったからでした。
昭和十八年頃より、島から引き揚げる十九年十二月頃迄は、いろいろと軍の制圧を受けていた父をこの目で見、体験して参りましたので、ことのほか終戦は何よりも感激ひとしおでした。

大勢の家族だった戦後の苦しさも並大抵のものではありませんでした。まず、寒い冬の燃料の配給。石炭は粉灰が主で、塊炭はほんのわずか、なぜか戦中、戦後磨き粉(クレンザー)、ベントナイトが売っており、粉末で粘土の粉が混じっていたようです。それを買ってきて粉炭にまぜ、水を少し入れてかきまぜます。ルンペンストーブの真中に、木っ端を二、三本立て、周りにこの粉炭をつめた上に、ほんの少し塊炭をのせて、焚き付けに火をつけます。塊炭と木っ端の部分だけは燃えますが、ルンペンストーブはぐれてさっばり燃えてくれません。
幾度も幾度も道路の真中にひっくり返し焚き直したことか。

”炭鉱マンに非ずば、人に非ず”との流行語がありました。当時は炭鉱で働く人がうらやましく思った時代も今は夢の様です。昭和二十年秋、空襲からまぬがれた根室の家に戻りましたが、爆風でこわれた家は隙間だらけ。少し高い処にある私の家から海岸の方はものの見事に焼け野原。旧白木屋(現根室信用金庫)、根室郵便局、北海道拓殖銀行根室支店がまる見えでした。弥生町の海岸線までもはっきり見え、空襲のすさまじかった事が思い出され胸が痛くなりました。

翌年二十一年からは、復興の槌音も高らかに、またたく間にバラック建ての家が立ち、本町方面も海岸線も見えなくなりました。これに合わせて激しい食料難でした。
二十二年十一月中旬頃、戦後初めてさつま芋が配給になりました。現碓氷酒店の倉庫の一番端に食料営団の事務所がありました。その裏の空地で配給が始まります。

家族が大勢な、私の家では一人当り五百匁にしても五貫匁位の配当です。南京袋を持って勇んで行きました。何時間も順番待ちをしてくたびれ、家に帰って煮て食べようとしましたら、ほとんどが腐ってベトベト、食べるところが少なくがっかりしました。寒さに弱いさつま芋を貨車に野積みして放置している間に途中霜にあうかし、少しシバレたのでしょう。それでもかたいところを煮て食べました。五年振りのさつま芋の味は忘れられませんでした。

その他、澱粉かす、ふすま、乾燥トウキビ、トウキビ粉、昆布、大豆、これ等の配給品を食べるとお腹をこわし、悩みの種でした。主食の米は一日一人二合五勺の配給基準に対し、昭和二十二年には百二十日もの欠配でしたから四ヶ月は米の配給がなかった事になります。その後も満足な配給はなく、欠配つづきでした。
その頃、買出し、闇屋の横行、戦争の終った後の生存競争が激しく、全く食糧戦争そのものでした。

「幽霊貨車」の事件が表面化したのもこの頃でした。当時、根室の海産物の取引きが活発であり、これにともなって海産商の人々が本州送りの旧国鉄貨車を獲得するため、貨物係に多額のワイロを使ったもので、この事件のため市内の主だった経済人十数人と、国鉄職員数人が釧路の刑務所に送致されて、根室経済界の崩壊とさわがれた事件もありました。

以上のような状況でしたので、かつて択捉島在島時代貧しくとも平和な日々を過こしたことが痛切に思い出されてなりませんでした。
このような困難な時代を過ごした人生ですが、ようやく衣食住に恵まれ、幸せを噛みしめている日々ですが、ただ一つ胸につかえて離れない心残りがございます。北方墓参です。

幾年もつづいている墓参ですが、私の故郷の天寧には未だに参詣することが認められておりません。私の祖々母と祖父、叔父、姉、兄の霊が戦後半世紀をすぎた現在も天寧の墓地に淋しく眠っているのです。
今や二世の人々は老境に入り、足腰の不自由さを訴える現在、せめて健康なうちに、まだ墓参の実施されていないそれぞれの肉身の墓に詣でることが、一日も早くかなえられる事を念願している今日この頃です。