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元島民が語る「北方領土」
竹内 春男 歯舞群島(春苅島)出身

歯舞群島(春苅島)出身

旧ソ連邦が北方四島の不法占領を続け十年が経った一九五五~六年(昭和三十~三十一年)、日ソ国交回復を目指す「日ソ交渉」は、終始、北方領土問題をめぐり難航し、その成り行きに一喜一憂しながらも必ずや「島は還る」との期待感にあふれた。

しかし、この日ソ交渉は、結局、最大の懸案である四島問題を解決すべく日ソ平和条約の締結を先送りにした「日ソ共同宣言」(一九五六年十月十九日)の方式で妥結し、とくに元島民や根室地方の住民は落胆の色に変わった。

米国傘下の日本にあって東西冷戦下の同交渉は、旧ソ連邦の列強外交を見せつけられ、シベリア抑留者の早期送還、日本の国連加盟支持、日ソ漁業条約の発効をかかえた日本としてはやむを得ない妥結だったが、肝心の領土問題ではその条文扱いで悔いが残り、いわば失敗の領土交渉であったと私は考え続けてきた。

そして、その後の十年はまたたく間に過ぎる中で、気づき憂いたのはすでに二十年を経て元島民が主力となっていた返還運動者の高齢化による退陣が目立つようになった。世論をおこし、民族の威信にかけて解決しなければならないこの問題は、現地として国民を代表する使命を担っていると考えねばならず、このままの状況では安藤石典氏(旧根室町長、返還運動の先駆者)らの先人の意にそむき、強いては根室の発展を損ねるとの意識にかられた。

さて、その私は、そのころ地元新聞の記者生活も十年に達していたが、当時、市政と漁業関係を担当し、毎日、市役所に出入りしていた。
これから記述することが何か私の手柄話のようで恐縮するが、事実なので今となっては話してもよいであろうし、当時にして私の北方領土問題に賭た情熱の一端を理解していただければ幸甚に思う。

あるとき横田俊夫市長(故人)との個人的な席で私は横田さんに「領土対策係」の設置について説いた。すると横田さんは「そうしよう」といい、その年(昭和四十年四月)、企画課に領土対策係を設け、初代係長に白崎大氏(前助役、現教育長)をあてた。そこでこの機構を活かし、啓発活動を思いたったのが遊説隊、すなわちキャラバン隊の中央への派遣だった。

これについても横田市長に直訴しようとも考えたが、先の領対係の件でしゃしゃり出たことでもあり、ここはまず助役の寺嶋伊弉雄氏(のちに市長)にキャラバン隊の中央への派遣を再三にわたって持ちかけていた。そんなとき根室青年会議所(根室JC)の動きと相まって寺嶋助役は、その場で決断し、根室JCの行動計画を一挙に拡大、ほば私の思惑通りの形で実施されることになった。(この話し合いの場には私もいて意見を述べた)このとき横田市長は長期出張で不在、寺嶋助役の裁量で決められたものであった。

こうして、わずか十日間あまりの準備ののち、昭和四十二年十一月一日から十日間にわたり、乗用車輌十台(一輌に二人乗車)を連ね「根室市北方領土早期返還実現キャラバン隊」が道央(札幌、小樽方面)に派遣され、四十七市町村に対し横田根室市長のメッセージを手渡し、返還要求運動への取り組みと参加を求めた。

それに私も有給休暇をとり報道機関等に対応する広報班長の役で参加したが、社の同僚からは言論人(記者)として中立的な存在を維持すべき者が政治問題に加担するとはの批判もあった。しかし、私はこれを無視した。言論人である前に私は日本国民であり、ましてや島を追われた元島民なのだ。不法に占領され、国家の威信が傷つけられ,主権が犯されている。このことは、領土なきは国家の存亡にかかわる根源的な問題だとの意識が先行し、青年の血潮が行動へとかきたてずにはおかなかった。

私は、この第一回のキャラバン隊の構成メンバーを発起人とする、「根室市北方領土問題青年会議」の設立を提言したところ、全員快く受け入れ、その設立(昭和四十三年)をみたが、私は初代会長に誰を推すかで悩み、知人の弓削正己氏に相談したところ、中林昭生氏を挙げた。私は、まったく面識がなかったが、中林氏に会って口説いた。同氏は「責任が重いね」と引き受けてくれたが、彼の人柄は組織を拡充させ、当時、返還要求活動の中核的な存在だった。

道内全市町村を三ヵ年にわたって巡った根室市キャラバン隊はその反響とともに世論形成に多大な成果をおさめた。これをさらに北海道の肝入りで全国に広めるべきだとして、同青年会議の中林会長、浄土東副会長(故人)、私(事務局長)の三人で、道領土対策本部に出向き「道キャラバン隊」を本州に派遣するよう要請した。これが採り上げられ、今日の「北海道北方領土返還要求キャラバン隊」が実現した。私は、これにも参加したが、これからも命ある限り、島還るその日まで「島を還せ」と叫び訴え続ける。