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北方領土の面積は、5,003km2で、千葉県(5,158km2)とほぼ同じです。これは、東京都と神奈川県を合わせた面積より広いのです。

納沙布岬と貝殻島の距離は3.7kmです。富津市周辺から対岸の三浦半島の様子がよく見えますが、この距離は近いところでも約7kmです。

千葉県成田山の写真

(1)北方領土と房総の人々

1) 伊能忠敬と前田恭安

日本で初めて全国の測量地図を作ったのは、佐原の伊能忠敬ですが、房総人で、初めて北方領土(国後島)を目撃したのも伊能忠敬であったと思われます。

忠敬は、第1回の測量を奥州街道とえぞ地で実施しています。幕府の許しを得て、1800年(寛政12年)えぞ地に渡り、海岸沿いに測量しながら厚岸に行き、内陸の道や川舟を利用して西別に向かいました。この付近から、根室と国後島の岬の方角を遠測して位置を定め、地図に記しました。さらに翌年、国後島、択捉島で8月15日の月食観測をしたいと幕府に申し出ましたが、許可が得られず、実現しませんでした。

それから9年後の1809年(文化6年)銚子の医師で前田恭安という人が箱館(現在の函館)の官府医としてえぞ地に渡っています。恭安は、翌年択捉島に渡り、アイヌ人からロシア語を学び、その時に得た知識を「氈裘文筌」という書物にまとめました。

2) 佐倉藩士の調査

1855年(安政2年)、松前周辺を除くえぞ地は再び幕府の直轄地となり、時の老中たちは、えぞ地の状況を調査させるために、家臣を派遣しています。
房総では、1856年(安政3年)に佐倉藩の佐治岱次郎 佐波銀次郎・窪田官兵衛たちが赴きました。
この調査の報告書『協和私役』には、樺太へ渡る予定を明春に延期しオホーツク海を横断して根室に向かう途中、野付半島の付近から国後島の高い山なみを眺めたことや、根室で聞いた色丹島に関する話が記録されています。

翌年再び、佐倉藩は島田丈助・三橋清一郎・今村治郎橘らを送りました。今村は、島の自然や暮らしを詳しく綴った「蝦夷日記」を残しています。この日記によりますと、一行は国後島の泊に着船し、北側を進んで択捉島に渡り30余日滞在し、近藤重蔵が「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てたカムイワッカオイの丘をはじめ各地を訪れました。また、水晶島・多楽島・色丹島をまわって調査しました。
関宿藩でも小林恭助・成石修輔らを派遣しました。成石修輔は「東徼私筆」に国後島に渡ったことを書き残しています。

3) 醍醐新兵衛の活躍

1858年(安政5年)の3月、箱館奉行は、安房勝山藩に対して、「勝山村の新兵衛が永年鯨漁に経験があるので、えぞ地において試してみたい」という命をくだしました。
勝山村の新兵衛とは、醍醐組八代目の新兵衛定緝という人です。新兵衛は善兵衛・仙次の二人を伴い、箱館奉行所属の箱館丸に乗ってえぞ地へ向かっています。箱館より捕鯨調査をしながら根室に出、箱館奉行と合流して国後島、択捉島へ渡っています。国後島の泊に着船、択捉島の振別に上陸し、10日間振別会所に奉行と共に逗留して捕鯨の漁場を調査したようです。

4) 潜水夫のほたてがい漁

近代に入って、大正時代から昭和18年ごろまで、毎年、富津や勝浦の潜水夫が、国後島や歯舞諸島のほたてがい漁の出稼ぎにいっています。
富津と勝浦は白浜とならんで、千葉県内で潜水器漁業のもっとも盛んなところとして知られています。なかでも富津はたいらぎ(貝の一種)の産地として有名で、明治20年代から潜水器を導入してたいらぎ漁をしてきました。ところが、たいらぎは、11月から5月が漁期で、潜水夫は、禁漁期の収入を他に求めなければなりませんでした。

国後島・歯舞諸島のほたてがい漁は、これにかなった出稼ぎ先として、格好のところであったようです。それは漁期が、国後島近海では7月10日から10月末まで、歯舞諸島の志発島近海では7月10日から11月末までで、富津の潜水夫にとっては、冬から春にかけてたいらぎ、夏から秋にかけてほたてがいといったように一年間を通して働くことができたからです。毎年50人ほど、多い年には62人も北方の海に出稼ぎに行ったそうです。

船や潜水器機は根室にいる親方もちで、身の廻り品だけ持って出かけ、4か月間の収入が千円くらいになり、これは当時家一軒が建つ稼ぎで、たいへん魅力のあるものでした。
また、勝浦の方は、御宿から大原にかけて水深20m内外の暗礁が発達し、良好なあわび漁場として1880年(明治13年)から、潜水夫によるあわび漁が行われてきました。あわびの漁期は4月から9月でしたが、勝浦の潜水夫のなかには、あわび漁に途中でみきりをつけ、志発島へ赴く人達も多かったようです。
昭和15年頃、志発島でほたてがい漁をする12隻の潜水船のうち8隻に、勝浦を中心とする夷隅郡出身の潜水夫が乗り組んでいたそうです。

(2)千葉県における北方領土返還要求運動

北方領土返還要求運動が国民運動として定着するためには、日本全国どの地域でもこの運動の根をしっかり地下に下ろすことが重要であり、このような観点から、従来各地で個々に運動を続けている各団体が糾合し、北方領土返還を願う地域住民の声を終結させるとともに、更に多くの住民が運動に参加できる基礎を確立させ、返還運動の推進基盤となる北領土の返還を求める県民会議の設立が急がれました。昭和45年に宮城県ではじめて設立され、その後全47都道府県に設立されました。

都道府県民会議県民会議では、大会、研修会・講演会、北方領土返還を求めるキャラバン・署名活動、懸垂幕の掲出、パネル展など各種事業を行っております。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動千葉県民会議
2.設立年月日
昭和57年5月12日