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(1)愛媛県と北方領土のかかわり

1) 蝦夷地との交易

江戸時代、本土と蝦夷地を往来した北前船は、さけ・にしん・こんぶなどの海産物やクマ皮・ラッコ皮など、蝦夷地のめずらしい物産を日本海から瀬戸内海をへて大坂(現在の大阪)に運び込みました。逆に木綿や塩・ろう・雑穀などが北の国に向けて積み出されました。これらの品物の買い集めや風待ちのため、北前船が三津、波止浜など伊予の港に出入りすることもありました。また、瀬戸内海の人たちが水夫として北前船に乗り組みました。それだけに、ロシアの南下に対して無関心ではいられず、1792年(寛政4年)ロシアの使節ラックスマンが根室に来航した翌年には、宇和島・今治藩などで異国船漂着時の防衛策がたてられました。

2) 武田斐三郎の五稜郭築造

1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが軍艦4隻をひきいて浦賀にあらわれ、大統領の国書を提出して日本の開国を求めました。続いて、ロシアの特使プチャーチンが長崎に来て、日露間の通商と国境を決めたいと要求しました。

プチャーチンの応接にあたった幕府役人の随員の中に大洲出身(現在の大洲市)の武田成章(1827年~1880年)がいました。武田成章は通称を斐三郎といい、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸で佐久間象山から洋式兵術を修業しました。日本とロシアの主張はおり合わず、話し合いは難航しましたが、1855年(安政元年)「日露通好(和親)条約」が結ばれました。この条約によって、両国の国境は択捉島とウルップ島の間とし、樺太は両国の人たちが共に住んでよい土地になりました。

アメリカやロシアとの和親条約で、蝦夷地の箱館(現在の函館)が長崎・下田とともに開港場に指定され、ペリーが箱館港を視察することになりました。斐三郎は、その応接の随員として箱館に派遣され、そのままこの地にとどまりました。その後、蝦夷地調査団の一員に選ばれ、ロシア駐屯軍のたちのきを要請するため樺太にも渡りました。幕府は、国防上から蝦夷地を直轄領とし、その土地を箱館奉行に支配させました。斐三郎はその付属機関の諸術調所教授になって奉行所の役人や子弟、さらに全国から集まってきた若者に洋学と航海術・測量術・砲術などを教えました。わが国郵便制度の創始者前島密などもここで学んだのです。

箱館奉行は、北辺の防備を強化するため、弁天崎砲台と役所を兼ねた城郭を建設することにしました。その設計を命じられた斐三郎は、オランダの築城書を研究して、1857年(安政4年)に着工、足かけ8年後の1864年(元治元年)に完成しました。城の規模は、周囲3,400m、高さ4.5m面積は18万m2で、日本の城にはめずらしい西洋式の五稜星形であったので、「五稜郭」と呼ばれました。1868年(明治元年)11月、幕府海軍副総裁榎本武揚らがここにこもり、新政府の軍隊との間で箱館戦争を起こしました。

斐三郎は、ロシアの東洋経営の拠点ニコライエフスク(尼港)など黒龍江(アムール川)の周辺の地理・風俗調査と交易・友好を目的に、門下生たちと帆船亀田丸で間宮海峡を渡りました。5か月におよぶ航海と黒龍江のようすは、斐三郎の著書「黒龍江記事」にくわしく記録されていますが、一行はこの地に駐在するロシア人に歓待されたようです。

3) 松山士族らの屯田兵移住

1869年(明治2年)、政府は蝦夷地を北海道と命名し、北蝦夷地を樺太と改めました。1875年(明治8年)には、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結ぶとともに、屯田兵制度を設けて北海道の開拓と北辺の防衛にあたらせることにしました。

屯田兵の募集は、1899年(明治32年)まで続けられました。愛媛県からは300戸・1,500人の人たちが屯田兵とその家族として北海道に渡りました。特に1892年(明治25年)には107人の人たちが移住しましたが、そのなかには松山藩の家老や上級武士に生まれた水野忠恭・津田泰政(1872年~1944年)らの松山士族もいました。

津田らは県知事にはげまされて故郷を出発、長い船旅と徒歩旅行を続けて東旭川兵村に入りました。それからは開墾と軍事訓練に明けくれました。津田は、のちに東旭川村長・富良野町長を務め、1938年(昭和13年)にはNHKのラジオ放送で、屯田事情と屯田兵の服務・開拓の体験を語っております。屯田移住した人たちの多くは旭川・上川地方の兵村に入植しました。愛媛県の屯田兵は宇摩郡からの移住者が最も多く、全体の半数近くを占めています。また、農業開拓のため移住した人たちも宇摩郡など東予地方の出身者が多く、「宇摩団体」とか「東伊予団体」と称して、集団で入植しました。本県から移住した人たちの中には、井原彦太郎や重延久太郎のように開拓・酪農や慈善事業につくした模範農民もいました。

4) 日露戦争と松山捕虜収容所

日清戦争後、ロシアが遼東半島に進出しやがて満洲(現在の中国東北省)を占領したことは、日本の朝鮮半島における利益、ひいては日本の安全をおびやかすことになりました。1904年(明治37年)日露戦争がおこりましたが、この戦争には、郷土の歩兵第22連隊は旅順(現在の中国の遼寧省)攻撃に参加して多くの犠牲者を出しました。桜井忠温の「肉弾」にはその戦闘の模様がなまなましく書かれています。

日露戦争では、松山出身の秋山好古・真之兄弟の活躍がよく知られています。秋山好古(1859年~1930年)は、わが騎兵隊をひきいて世界最強といわれたロシアのコサック騎兵隊と戦闘をくりかえして撃退しました。秋山真之(1868年~1918年)は、連合艦隊の先任参謀を務め、わが国の運命を決するといわれた日本海海戦で意表をつく戦法をとってロシアのバルチック艦隊を破りました。

日露戦争中、松山にはロシア兵の捕虜収容所がおかれ、延べ6,000人のロシアの兵士が収容されました。愛媛県では、「松山へも、ロシアの軍人さんが、たくさん見えていますが、それを見にいったり、わるくちをいったり、指ざししたりしては、お国のためによくありません」と小学校の児童に注意するなど、捕虜の取り扱いに気をくばりました。捕虜たちは、外出も許され、道後温泉で入浴したり、街で買い物をしたりしました。このため松山は国際的に知られるようにもなりました。学校は運動会や競技会にロシア兵を招待し、市民も日常生活の中で温かくもてなしました。あるロシア将校の日記には、負傷兵の看病にあたった看護婦のやさしさ、素朴な市民の姿、田舎町松山の美しい風景などが印象深く記されています。やがてロシア兵は帰国しますが、松山でなくなった人たちは御幸寺山ふもとの通称「ロシア人墓地」に葬られ、今も地元の人たちが花を供えたり掃除をしたりしています。

5) その後の北海道・北方領土とのかかわり

日露戦争の結果、樺太南部をロシアから譲り受け、沿海州とカムチャッカの漁業権を得ました。

樺太南部と北洋漁場には、多くの日本人が進出しました。越智郡波止浜の八木亀三郎(1863年~1938年)は、1892年(明治25年)頃から、郷土の塩などを帆船二隻に積みニコライエフスクで交易、さけ・たらを大量に買いこんで帰りました。函館に八木商店を設けた亀三郎は、やがてかに漁業に着目、1924年(大正13年)に業界ではじめての3,000トン級のかに工船樺太丸をつくりました。この樺太丸は、40人が作業できるかん詰工場を備えた大型母船で、近代的な母船式かに漁業の先がけとなりました。八木商店の北洋漁業経営は亀三郎の子八木実通に受け継がれ、樺太丸と同型の美福丸を加えてさらに発展しました。1927年(昭和2年)八木らのかに漁業経営者は合同して昭和工船株式会社を設立しましたが、乱獲のため減産と統制が必要となり、かに工船の四業者は日本合同工船株式会社を設立、のちに日本水産株式会社に合併されました。

新田長次郎(1857年~1936年)は、温泉郡山西村(現在の松山市)で生まれ、創意と工夫によって機械用革ベルトの試作に成功、「東洋の調革王」といわれるまでになりました。本県では松山高等商業学校(松山商科大学の前身)の開校にあたり設備費の全額を寄付したことが知られていますが、北海道では製革に必要なタンニンの原料かしわの樹皮の豊富さに目をつけ、十勝に製渋工場を設立しました。第1次世界大戦後、タンニンの安価な輸入品が入ってくると、ベニア合板に主力をそそぎ、その他まくら木製造や酪農事業にも力を入れ、この地方の発展に貢献しました。

「北海道庁・樺太庁統計書」によると、1909年(明治42年)から1928年(昭和3年)の20年間に1,900人近くの愛媛県人が北海道、樺太、千島及び北方領土に移り住みました。そのうち、樺太には50人以上、千島及び北方領土には30人以上の人たちが移住しています。また伊予郡松前の行商人は集団で樺太、千島及び北方領土に渡り商品をかんにつめて売り歩きました。樺太の奥地に小学校を設立するなど教育と社会事業につくした松山の僧侶永井立教、樺太医学専門学校の初代校長として医師の育成にあたった伊予郡砥部町出身の越智卓見博士など、北辺の社会事業と医療に貢献した愛媛県人もいました。

こうしたかかわりは、第2次世界大戦が終わった1945年(昭和20年)、ソ連軍(現在のロシア)がこれらの島々を占領したことで、とだえてしまいました。1946年(昭和21年)12月、千島に移り住んでいた数家族が郷里に引き揚げて来ました。千島からは約1,000人の人たちが樺太に集められ、ソ連軍の命令で労働に従事していたことなど、終戦時の苦労を語っています。

(2) 愛媛県における北方領土返還要求運動

北方領土に対する県民の関心は、沖縄返還が実現した後急速に高まりを見せはじめました。徳島県では県青年連合会、青年会議所徳島ブロック協議会等を中心にいろいろな団体がそれぞれの立場で返還要求運動を実施していました。
1981年(昭和56年)「北方領土の日」の設定や、1983年(昭和58年)の「北方領土問題等の解決促進特別措置法」等の施行により、この領土返還運動が国民運動として大きく全国的な規模でくり広げられることになりました。
こうした全国的な盛り上がりの中で、県下の運動諸団体でも一体化した組織を作ろうという動きが出てきました。1983年(昭和58年)10月3日、県青年連合会、青年会議所、地方同盟など30団体が北方領土返還要求徳島県民会議を結成しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求愛媛県民会議
2.設立年月日
昭和52年11月4日