ページの先頭です

ここからグローバルメニューです

クリックでグローバルメニューをスキップ、グローバルメニュー終了地点へ移動します。

グローバルメニューが終了しました

(1)福岡県と北方領土のかかわり

歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島からなる北方領土の面積は5,003km2で、これは福岡県の面積4,986km2とほぼ同じくらいの広さにあたります。
また、北方領土は、歴史上の人物などをとおして福岡県といろいろなかかわりを持っています。

1) 北方領土と立花種周

老中松平定信によって北辺防備総監兼務の若年寄に任命され、北方の防備を推進した人物に三池藩(現在の大牟田市)藩主立花種周(1744年~1809年)という人がいました。一万石の外様大名から幕府の大番頭や寺社奉行に抜てきされ、また、領内では炭坑を開き、殖産興業に力を入れた人物でもありました。

この種周が若年寄になった前年の1792年(寛政4年)には、ロシアのラックスマンが日本人の漂流民を送って根室に来ました。幕府は国法によって通商はできないこと、交易のことは後日長崎で話し合うことをつげ、長崎への入港許可証を与え、ラックスマンを帰国させました。幕府はこの事件により、ロシアに対する政策や北方の調査を前の田沼時代より一歩進めて検討することになりました。

種周は蝦夷地開拓の政策を田沼時代の勘定奉行松本秀持から詳細に聞き取り、また、長崎奉行勘定役近藤重蔵からは国境取り締まりの重要性を聞きました。松本・近藤らの意見を取り入れ、北辺実地踏査が決定されました。田沼時代の1785年(天明5年)につぐ調査として、1798年(寛政10年)に近藤重蔵、最上徳内らが派遣されることになりました。調査団は三班に編成されました。松前を根拠地として、大河内政寿の東蝦夷地まわり、三橋成方の西蝦夷地まわりの二組が実地探索することとなりました。

近藤、最上らは東蝦夷地まわりとなり、国後島に渡り、択捉島に到達しました。帰路、厚岸で碑を建てましたが、その碑文に「五月着松前…(略)…六月過阿津気志、七月渡久奈志利、八月至恵登呂府…(略)…」とあります。この碑文から、国後、択捉両島の調査に2か月かかっていることがわかります。さらに、北海道内の東部のほとんどを踏査し、1799年(寛政11年)2月に江戸に帰り着きました。この時の報告書には北方領土のことがくわしく書かれています。

幕府はこの北辺実地踏査のあと、蝦夷地の開拓を組織的に、積極的に進めることにしました。松前藩領の一部を直轄地にし、南部、津軽両藩に箱館警備を命じ、いろいろな施設を整備しました。また、近藤重蔵を蝦夷地の取締役に任命し、北辺の調査を継続することにしました。この政策の結果、ウルップ・シムシルなどの失地回復が検討されることになりました。また、高田屋嘉兵衛の択捉航路の開発へとつながっていきました。

立花種周は、「北辺参勤制」も提唱していました。彼は北辺領土がどれほど重要なものであるかを説きました。また、日本の近代化の波の中でどのような意義を持つものかを指摘し、警鐘をならしましたが、北辺実地踏査の功労者近藤重蔵をどのような役職につけるか、また、水戸藩がすいせんした間宮林蔵の活用をどのようにするかなどの問題を残したまま、彼は幕府を去りました。

しかし、近藤らによって報告された北方領土の地理的知識、風土・民俗、政治のようすが後世に残されました。また、種周が行った仕事がつぎの間宮林蔵らによる調査へと発展していきました。
九州の一地方の、しかも一万石の外様大名にすぎなかった立花種周が北方領土に対する重要政策を進めてきたことは、わが福岡県における先人の業績として、私たちも理解しておく必要があります。

2) 明治開拓吏時代の福岡県人

幕末・維新期はわが国が新生近代国家への道を歩みはじめた時代といえます。この時代に北方開拓のために身を投じた福岡県人も少なくありません。北方領土の開発に直接かかわったわけではありませんが、二・三紹介します。

ア.高松凌雲

1870年(明治12年)同愛社をつくり、まずしい人たちに対する医療に一生をささげた人物に久留米藩(現在の小郡市)出身の高松凌雲(1836年~1916年)という人がいました。石川玄貞、緒方洪庵に学び医者となりました。1866年(慶応2年)に幕府の医師となり、翌年徳川昭武にしたがってフランスに渡り、パリで窮民医療を学びました。彼がパリにいる間に幕府がほろびました。帰国した彼は函館の五稜郭の戦いに参加しました。彼は敵味方の別なく傷ついた人の医療活動にあたりました。
また、彼は榎本武揚に降伏するよう説得し、戊辰戦争の終結に力をつくしました。

イ.福本日南

1889年(明治22年)に新聞「日本」を創刊した人物に、福岡藩(現在の福岡市)出身の福本日南(1857年~1921年)という人がいました。彼は若い頃「普通民政論」を発表し、ジャーナリスト・史論家として知られていました。1881年(明治14年)、彼が学生時代に旅先の宗谷岬でうたった次の歌があります。

看るたびに 憂ぞまさる 我がために 曇りて隠せ 樺太の島

1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約の調印が行われ、日本は全千島列島を領土とすることになりましたが、開拓を続けてきた樺太を放棄しなければなりませんでした。
当時の若い日本人に共通した思いが心の奥深くくすぶり続けている歌です。彼は1889年(明治22年)頃、東亜会をつくり、北海道開発などに力をつくしています。

ウ.白仁武

1890年(明治23年)内務省に入り、北海道参事官となった人物に柳川藩(現在の柳川市)出身の白仁武(1863年~1941年)という人がいました。彼は北海道参事官時代に「北海道小学読本」を編集しました。教育界における功労者の一人です。あとに八幡製鉄所の長官、日本郵船の社長となり、わが国の産業の発展にも力をつくしました。

エ.月形潔

1881年(明治14年)に北海道開発に関連して要職についた人物に福岡藩出身の月形潔(1847年~1894年)という人がいました。彼は福岡県で権少参事を務めたあと、司法省・内務省をへて北海道で勤務につきました。樺戸・上川・雨竜の三郡長として、石狩川流域の治水土木から民治行政にいたるまで、開拓地の基礎づくりに努めました。現在も月形(樺戸郡月形町)の名前が残っています。開拓期北海道の歴史に名を残した人物の一人です。

3) 北海道の開拓村・屯田兵と福岡県

歴史の上に名を残すこともなく開拓地の土となっていった人たちもいました。明治政府は、1874年(明治7年)に北辺の防備と開拓のために屯田兵制度をつくりました。戊辰戦争後に東北諸藩の士族が集団入植した例でわかるように、全国的な士族の救済策として実施された面もありました。

福岡県からも、1881年(明治14年)に福岡の士族団体の報国社が40戸、翌年には福本誠がひきいる開墾社が50戸とあいついで、石狩川口の篠路村当別太(現在の札幌市・当別町)に入植しています。1887年(明治20年)に福岡士族の屯田兵44戸が札幌北部の新琴似(現在の札幌市)に、1893年(明治36年)には滝川村(現在の滝川市)にと屯田兵村をつくっていきました。きびしい自然条件との戦いの中で、報国社はしだいに消滅し、開墾社の人たちもほそぼそとした開拓地生活を続けました。彼らは福移の地名と天満宮と小学校を残しています。

150戸、1,000人におよぶと思われる多くの人たちが夢をたくして開拓村に入り、その途中で夢を果たすこともなく去って行きました。さらに北への道をたどった人たちがいたかも知れません。

(2) 福岡県における北方領土返還要求運動

福岡県における北方領土返還要求運動は、1969年(昭和44年)頃から、各団体によってそれぞれの立場から進められてきました。
しかし、こうした運動だけでは、それぞれの団体内だけの運動にとどまり、北方領土返還要求運動を全県民の運動にまで高めることは困難でした。そこで、北方領土返還要求運動を全県民の運動として進めるための組織が必要になってきました。

まず、これまで北方領土返還要求運動を積極的に進めてきた県内の各団体によって、北方領土返還促進福岡県民集会推進委員会が設けられました。県内の各団体に呼びかけを行い。1980年(昭和55年)4月16日、北方領土返還促進福岡県民集会が開催されました。ここに、それまでそれぞれの立場で行われてきた返還要求運動が一つに結集され、足なみをそろえて、より強く運動が進められることになりました。

その後、県民集会推進委員会は県民協議会結成準備委員会に切りかえられ、この委員会が中心となって、1982年(昭和57年)11月18日、北方領土返還促進福岡県民協議会が結成されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還促進福岡県民協議会
2.設立年月日
昭和57年11月18日