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(1)岐阜県と北方領土のかかわり

1) 北の開拓者 飛騨屋久兵衛

北海道は、広大な森林や原野が広がり、木材や近海の魚介類に恵まれた地方です。ここはかつて蝦夷地と呼ばれ、狩りや漁で生活するアイヌの人たちが住んでいました。江戸時代になると、商人がこの地に進出して、木材を切り出したり、アイヌの人たちと交易して漁場を開き、蝦夷地を開発していきました。しかし、開発が進むにつれて、アイヌの人たちは土地を追われ、生活が圧迫されていったのです。そのため、18世紀の末には、北方領土の一つである国後島で、アイヌの人たちの反乱も起こりました。

岐阜県出身者である飛騨屋久兵衛は、蝦夷地開発に乗り出した代表的な商人であり、国後島で起きたアイヌの人たちの反乱にも大きくかかわっている人物です。
ここでは、岐阜県と北方領土とのかかわりを、飛騨の地から蝦夷地に進出し、大富豪になった飛騨屋久兵衛を通して述べてみたいと思います。

ア.飛騨で育った久兵衛

飛騨屋(武川)久兵衛倍行は、まわりを山に囲まれた飛騨国益田郡湯之島村(現在の下呂町)で育ちました。先祖は武川倍紹といい、武田信玄の家臣でしたが、武田氏没落後、この地へ移り、土地の名家を継ぎました。

そのころの飛騨は、金森氏の支配から天領、つまり徳川幕府の直轄地にかわり、人々の生活はさらに苦しいものになりました。幕府は財政収入をふやすため、飛騨の鉱山を独占するとともに、豊富な木材は江戸の商人に請け負わせて巨利を得るようにしたからです。さらに、納税方法の変更や、新たな検地による課税面積の増加も、人々の生活をいっそう苦しいものにしました。

「こんな所にいては、大きな仕事はできない。」
先祖から譲りうけた三町歩余りの土地を耕してきた小地主久兵衛倍行は、こんな飛騨にあきたらない青年でした。山国の飛騨でも下呂は湯治客でにぎわう温泉地で、久兵衛は少しばかりの商売もはじめていましたが、それでもこんな山国で自分の一度しかない人生を終えることには我慢ができませんでした。

「俺はこの飛騨を出て、蝦夷地へ行くぞ。蝦夷地の山の幸、海の幸が俺を待っている。」
こんな決心をした久兵衛は、五つ違いの弟倍時をつれて飛騨の国を出ました。1696年(元禄9年)、久兵衛22歳の時でした。

イ.待望の蝦夷地開発

久兵衛はまず江戸へ出て、木材をはじめとする物資の流通の勉強をするとともに、資金調達に努力しました。
そして、4年後、下北半島(青森県)の大畑村に店を出し、飛騨屋と名乗って商いをはじめました。ここで、蝦夷地での活動の準備を整えること1年余り、ついに1702年(元禄15年)、故郷飛騨を後にしてから7年目にして津軽海峡を渡る待望の日を迎えることができました。

「きっと、この海の向こうに広がる蝦夷地を開発してやる。そして、飛騨にはいないような大商人になってやるぞ。」
津軽海峡を渡る潮風を体いっぱいに吸い込んで、久兵衛はそう心に誓いました。

その頃の蝦夷地の大部分にはアイヌの人たちが住んでいて、松前藩はアイヌの人たちとの交易によって藩の財政をまかなっていました。商人たちは、藩の交易を請け負って利益をあげようと、競って松前藩に取り入りました。久兵衛もそれら商人の一人で、彼は松前藩から無尽蔵ともいえるえぞ松など木材の伐採と、これを江戸や大阪に出す権利を得ました。

開発を許された飛騨屋の活動の範囲は蝦夷の各地にあり、東は北方領土の国後島にもおよびました。そして、一時はえぞ松の伐採を飛騨屋が独占するほどで、飛騨屋久兵衛は三十数歳の若さで、大商人になりました。彼が巨利を得たのは、目をつけたえぞ松が木目の美しさでたいそう評判がよかったこともありますが、近代的経営ともいえる商法を行ったことをあげることができます。彼は次のような経営を行ったのです。

  1. 切り出した木材の長さや太さなどを規格化し、寸法をそろえて出荷したので、買手にずいぶん喜ばれた。
  2. 作業を、伐採、搬出、造材と分業化し、能率を良くした。
  3. 賃金を前払いとしたので、熟練した作業員が集まった。

こうして、飛騨屋久兵衛は巨額の富を得るのですが、彼はさらに海産物にも着手し、蝦夷地開発の代表的な商人となりました。

ウ.飛騨屋と国後島アイヌの反乱

飛騨屋久兵衛は、26年間にわたった蝦夷地開発を養子の二代目久兵衛倍正に譲って飛騨に帰り、54歳で亡くなりました。初代久兵衛は、若い頃からの夢を果たし、きっと思い残すことはなかったでしょう。しかし、跡を継いだ二代から四代の飛騨屋久兵衛にはきびしい試練が待っていました。例えば、信じていた使用人が裏切って、飛騨屋に代わり松前藩に取り入ろうとしました。松前藩も財政再建のために、飛騨屋らの請け負い場所を取り上げ、藩自身で交易や山林開発をしようとしました。また、ロシアの南下政策で、ロシア人が飛騨屋の請け負い場所へやってきて、交易をするようなことも出てきたのです。

なかでも飛騨屋の命運を決定的にしたのは、国後島で起こったアイヌの人たちの反乱でした。
四代目久兵衛益郷の頃になると、飛騨屋の請け負い地は北海道の東部で、国後ではアイヌの人たちを使ってさけやますをとっていました。松前藩では、飛騨屋をはじめとする内地の商人にアイヌと交易させ、その請け負い料を大切な収入としていたのです。しかし、この交易でアイヌの人たちは生活が苦しくなり、その不満を飛騨屋に向けはじめました。そして、ついにアイヌの人たちは申し合わせて反乱を起こし、飛騨屋の使用人たち70人余りの生命を奪いました。松前藩では鎮定軍を向かわせ、やっとのことでこの反乱を鎮めることができましたが、背後でロシアがそそのかしたなどという風評が江戸でもささやかれるなど、たいへんな騒ぎとなりました。

松前藩では、この事件の責任を飛騨屋に押しつけ、その請け負い場所すべてを取り上げてしまいました。これにより、初代久兵衛以来、四代続いた飛騨屋の蝦夷地での商業活動は停止せざるを得なくなり、松前藩に貸していた金もあきらめて、益郷は失意のうちに故郷の飛騨国益田郡湯之島へ引き揚げました。

飛騨屋久兵衛に対する評価はさまざまでしょうが、海のない岐阜県出身者が未開の蝦夷地に開発にのり出したこと、また、四代90年の長期にわたって活動したことは驚きであり、その業績はたたえられることでしょう。
なお、皆さんの使っている歴史的分野の教科書にも、江戸時代、松前藩から交易を請け負って進出した商人がいたこと、それら商人の進出のために生活が苦しくなって国後島ではアイヌの人たちによる反乱が起こったことなどが書かれています。ここでいう商人のもっとも代表的な人が、飛騨屋久兵衛なのです。

(2) 岐阜県における北方領土返還要求運動

1) 県民運動の高まり

岐阜県では、強い決意を持って北方領土の返還運動が進められてきました。
まず、岐阜県における運動の先がけとなったのは、県議会における活動でした。県議会では、田中首相(当時)がソ連(現在のロシア)を訪問し「日ソ共同声明」が出された1973年(昭和48年)に、2度にわたり「北方領土復帰促進に関する意見書」を決議しました。また、その後1981年(昭和56年)には県議会の議員団が相次いで北方領土の状況を視察し、県民の啓発に努めました。

これらの県議会の返還要求運動と同じ頃、県内の市町村をはじめとして、青年団体、婦人団体、各種経済団体等が中心となってさまざまな北方領土の返還運動を活発化させてきました。その運動は、返還運動が北方領土に住んでいた住民だけの問題ではなく、日本の領土と主権が不当に侵されていることを広く県民全体に訴え、日本国民全体の問題としてとらえることを主な目的としたものでした。

2) 県民会議の設立

このような運動を受けて、県ではより強力な県民運動を展開し、運動の組織化を図るため1982年(昭和57年)にこれらの各団体に参加を働きかけ、県民会議の設立に向けての動きをはじめました。その際に、県では次のような趣旨の呼びかけを行いました。

「歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、日本人が祖先から受け継いできたわが国固有の領土であることは歴史的にも国際法上からも明確であります。しかるに、これら四島は、第2次世界大戦の直後において、ソ連により一方的かつ不法に占拠されて今日に至っております。…祖国復帰を実現する最大の力は、何といっても全国民の総意を結集することです。このため、今後の日ソ外交交渉に強く反映させようと、全国的に北方領土返還要求運動が展開されているところであります。…このたび北方領土返還要求運動岐阜県民会議を設立することとしましたので、この趣旨にご賛同のうえ、ご加盟くださるようお願いいたします。」

その結果、翌年2月7日の「北方領土の日」に県民大会を開き、北方領土返還要求岐阜県民会議を設立する運びとなりました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動岐阜県民会議
2.設立年月日
昭和58年2月7日