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(1)群馬県における北方領土返還要求運動

1) 県民会議結成の気運高まる

ソ連(現在のロシア)の法的根拠のない占拠によって、長年住み慣れた北方の島々から強制引き揚げを余儀なくされ、根室市を中心に北海道本島や本州に引き揚げてきた人たちは、故郷へ自由に墓参りも出来ない、つらい日々を送っており、その苦しみは、はかり知れないものがあります。領土問題の解決のめども立たないまま、このような不幸な状態が続いていることは、残念なことです。

群馬県内にも、北方領土から引き揚げてきた人たちが現在4世帯います。当時この人たちが中心になって講演会や座談会などを開いて、島を追われた頃の厳しい状況を訴え続けてきたことが、本県の返還要求運動の出発点になっているといえましょう。

こうして、ごく少数の人たちで始められた返還要求運動も除々に広がりをみせ、1965年(昭和40年)代に入ってからは、青年団体や婦人団体をはじめ、商工団体、農業団体、労働団体、それに市町村など多くの団体がこの運動に加わるようになって、運動の輪は大きく広がりました。
そこで群馬県下にもこの運動を中心になって推進する組織が必要だということで、県民会議を結成する気運が急速に盛り上がってきました。

2) 県民会議の結成

私たちの住む群馬県は海に接しない県ですが、島を失い北方領土から引き揚げてきた元島民の苦しみを自分のことのように思い、上州人ならではの人情深い、心豊かな県民性もあって、北方領土問題にはとくに心を痛めている人達が多く、この運動を積極的に支持する人の数もこのところ目立って増えてきました。

群馬県で県民会議を結成したのは、1979年(昭和54年)4月13日です。
この日は、高崎市の音楽センターに県内各地から大勢の人々が参加して県民集会を開きました。関係団体の代表からこれまでの運動状況の報告などを行ったあと、討議に移り、万場一致で「北方領土返還要求運動群馬県推進連絡協議会」(群馬県民会議)の結成が決まりました。

(2)猪谷六合雄と国後島

群馬県前橋市の赤城山で生まれた世界的なスキーヤーであり、スキーの研究家としても有名な猪谷六合雄さんは国後島と大変関係の深い方でした。

猪谷六合雄さんが国後島に渡ったのは、スキージャンプに熱中していた1929年(昭和4年)で、40歳の時でした。この年の6月に猪谷夫妻が北海道を旅行中、旅館で知り合った同宿の元択捉島紗那測候所長という人から、択捉島の話を聞き、また、島を是非訪ねるよう勧められたのがきっかけとなったそうです。猪谷さんも、もしもこの晩、この人が来て勧めてくれなかったら、あるいは私たちの生涯6年余りという島の生活には入らなかったかもしれないと著書『雪に生きる』の中で述べています。

間もなく奥さんと根室へ行って国後島へ行く船を探しました。そして国後島の東沸という東海岸の小さな村へ行く50トンたらずの漁船に便乗させてもらって根室を立ちました。
計画は東沸を経て択捉島へ行く予定でしたが、ふと反対側の海岸に出てみたくなり、東沸から14・5kmのところにある古丹消という村に行ってみることにしました。古丹消についた猪谷夫妻は、眼前の知床半島に日の沈む夕暮れの海岸を散歩しながら、風景の美しさにすっかり感心してしまいました。夫妻の喜ぶ姿をみた宿の主人は、当分の間、この村で遊んでいくようにすすめ、26.4m2ほどの小屋を提供してくれました。猪谷さんも村の人たちともすぐに親しくなり、古丹消での生活が始まりました。

古丹消の生活が始まってみると、島の生活にすっかり心をひきつけられてしまい、猪谷さんはまだ赤城の生活にみれんはありましたが、スキーの研究と島への愛着が強く、古丹消への移住を決心しました。
そう決心した猪谷さんは、シャンツェのつくれそうな場所を探したり、小屋をたてる場所を探したり、シャンッェの設計をしたり忙しい日々を送りました。一通りの計画が出来ると、猪谷夫妻は赤城山へ戻って、赤城旅館の経営を姉に託し、一緒に暮らしてきた人たちに別れを告げ、スキー、大工道具、写真機、蓄音機等々を持って、1929年(昭和4年)の秋、新しい希望に胸をふくらませ、島へ向かいました。

再び、古丹消に戻った猪谷さんは、村の人たちに手伝ってもらって、さっそく小屋の建設に取り掛かりました。猪谷さんは大変器用で自分で小屋を設計し、秋の終わりに、付近から湧き出る温泉を引き込んだ風呂もある新しい小屋を自分で完成させました。
小屋ができるとゲレンデの手入れにかかり、雪の降る前に三つの小さなシャンツェと山スキーの練習場をこしらえました。

国後島の古丹消に移住して2年後の春の1931年(昭和6年)5月に、猪谷夫妻には男の子が生まれました。猪谷さんは、「千春」と名付けました。この男の子が、後の1956年(昭和31年)2月にコルチナダンベッツォで開かれた冬期オリンピックで我が国初めての銀メダルを見事勝ち取った猪谷千春選手です。また、その2年後の1933年(昭和8年)7月に「千夏」が生まれました。

息子の千春さんも1934年(昭和9年)のシーズンからスキーをはいて父親と滑り、シーズンの終わりにはクリスチャニアらしい滑りができるようになっていました。
1935年(昭和10年)の夏、猪谷さんは子供たちの教育その他いろいろな都合で、一時、島を引き揚げることにしました。そして、そのときの気持ちを『雪に生きる』の中で次のように書いています。

「今ここを去ろうとするに及んで、滑り回った数々の斜面や、歩いた場所の一つ一つを思い出してみると、何もかも懐かしい気がした。波の音にも、風の音にも、この場所だけの音色があるように思えた。私は荷造りをしていながら、うっかりすると過ぎ去った日の出来事を、次から次へと思い起こして、ぼんやりと手を休めているようなことがありがちだった。(中略)浜へ出ると、毎日見馴れてきた景色の岩石にも、滝にも、牧柵にも心からのお礼を述べて別れを告げたい気持ちだった。(中略)小屋は、暗い岬の崖を背景に、弱い夕陽を斜めに受けて、二階の窓ガラスが二枚だけ西の空を反射して光っていた。穏やかに暮れていく景色の中に、小屋は、しょんぼりと立って私たちを見送っているように見えた。(中略)私たちは、またいつか、ここへ帰ってくるかも知れない。だが、もう再び来られない方が多いだろう。私はそう思いながら手を上げて、小屋に向かってお別れをした。すると、自然に涙が込み上げてきて小屋の輪郭がぼやけてしまった。」

1935年(昭和10年)9月2日、朝7時頃、浜まで出てきた村人たちに見送られ、猪谷さん一家4人は島を離れました。猪谷さんは、初めて国後島に渡った時、日帰りするかも知れないつもりで来た古丹消に、まる6年に余る月日を送ったのでした。それは、猪谷さん一家がこよなく島を愛したからでしょう。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求群馬県推進連絡協議会
2.設立年月日
昭和54年4月13日