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(1)兵庫県と北方領土のかかわり

1) 工楽松右衛門

ア.松右衛門帆の発明

工楽松右衛門は、1743年(寛保3年)、播磨の高砂(現在の高砂市)で生まれました。若い時から船に乗り込んで働いてきましたが、やがて、自分で船を持ち、海運業を営むようになりました。
その頃の船の帆は、普通の綿布2、3枚を重ね、それをさらに縫いつないだものでした。そのため、破損しやすく、製造にも修繕にも多くの労力を必要としました。

物を作ったり、発明したりする才能に恵まれていた松右衛門は、本業のかたわら、帆を改良する研究を続け、1785年(天明5年)、丈夫な帆を、少ない人手で作ることに成功しました。そして、兵庫の佐比江町(現在の神戸市兵庫区)で、自分が発明した帆の製造販売を始めました。松右衛門帆と呼ばれるこの帆は、またたく間に、わが国の主要船舶に使用されるようになり、北前船をはじめとする江戸時代後期の海運業に、画期的な発展をもたらしました。

この帆の改良こそが、北前船の国後島や択捉島などへの航海に大きな役割を果たし、北方領土の開発に大きく貢献したのです。

イ.択捉島での築港

松右衛門は、海運や帆の製造のほかに、土木工事の設計や施工でも優れた能力を見せていました。このことを知った江戸幕府は、1790年(寛政2年)、松右衛門に、択捉島の波止場をつくるよう命じました。幕府は、松右衛門が海運や交易を通じて、択捉島や国後島などにくわしいことも知っていたからです。

同年5月、松右衛門は、自分の船に築港用の器具や機材と日章旗を積み込んで択捉島に渡り、工事に着手しました。厳しい寒さなど、多くの困難に見舞われましたが、翌1791年(寛政3年)の夏、松右衛門は立派に波止場を築きあげました。
その後も、交易を兼ねてたびたび択捉島に渡り、波止場の修理に努めました。人々は、択捉島の湾内にある小さな島を、松右衛門島と呼ぶようになりました。

ウ.択捉島開発を記した古文書

1802年(享和2年)、江戸幕府は、松右衛門の功績を賞して「工楽」の姓を与えました。
1790年(寛政2年)12月に、幕府が松右衛門に渡した文書で、「恵登呂府の波止場築港に努力したので金30両を与える」と書かれています。この文書は、日本が、江戸時代に択捉島開発に着手した事をはっきりと物語っています。このほかに、「恵登呂府会所」と記された文書もあり、択捉島に日本の役所が置かれていたことがわかります。

後年、松右衛門は、択捉島開発や蝦夷地交易の中継地として使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲り渡しました。嘉兵衛は、ここを根拠地として、国後島や択捉島の開発をさらに発展させていきました。

2) 高田屋嘉兵衛

ア.高田屋嘉兵衛と辰悦丸

高田屋嘉兵衛は、1769年(明和6年)、淡路の都志本村(現在の州本五色町)で生まれました。家が貧しく、6人兄弟の長男であったので、13歳の頃から親せきで漁業や店の手伝いをして家計を助けました。
22歳の時、弟たちを連れて兵庫港に出て、樽回船に乗り組みました。樽回船というのは、樽につめた灘の酒を江戸まで運搬した船のことです。

兵庫の港は、次々に入港してくる北前船でにぎわっていました。蝦夷地から運んでくる海産物が、飛ぶように売れるようすを見て、嘉兵衛たちは、蝦夷地進出を夢見るようになりました。
1796年(寛政8年)、嘉兵衛27歳の時に、その頃としては最大級の1,500石積(約225トン)の辰悦丸を建造しました。この年が、辰年にあたることと建造の悦びから、辰悦丸と名づけました。

イ.北前船

北前船は、大阪や兵庫を起点として、瀬戸内海から西回りに航行して日本海の各地の港に立ち寄り、その地方の特産物を積み込み、また、積み込んでいる産物を売りながら蝦夷地まで下ったのです。江差や松前が終点でした。そこで蝦夷地の産物を積み込み、また、各港で商売しながら、兵庫、大阪へ上ってきました。

大阪、兵庫では、酒、そうめん、油、木綿、古着、煙草などを積み込み、瀬戸内海では、塩、紙、砂糖、日本海に出ては、鉄、米、縄、むしろ、陶器、酒などの生活用品を積み込んだのです。蝦夷地からの上り荷は、にしん粕、鮭、こんぶなどの海産物でした。特に、にしん粕は目玉商品で、大阪や兵庫地方で盛んに栽培されていた綿の肥料としてもよく売れました。

航海は、日本海の荒海を乗り越えるのですから、風や波に左右されたり、また、品物の買い付けにも日数がかかるなど、片道に約2か月間かかりました。そのうえ、秋から冬の間は、海が荒れて航海ができません。そのため、年に一度航海するのがやっとでした。
北前船は、高波に突込まないように船首を高くそりあげ、船底は岩にあたってもこわれないように丈夫に作られました。帆も、はじめはむしろを使っていましたが、やがて厚い布地の帆に変わっていきました。

ウ.高田屋嘉兵衛の択捉島開拓

江戸幕府は、択捉島の調査と開発を計画して、御用船頭を募集しましたが、誰も危険な仕事であることを恐れて、これに応じる者がありませんでした。国後島と択捉島の間の国後水道は、太平洋の暖流とオホーツク海の寒流がぶつかり合って荒れ狂い、そのうえ、岩が多く、もやがかかって前方の見通しがききません。

幕府の役人近藤重蔵は、蝦夷地の厚岸(現在の北海道厚岸町)で高田屋嘉兵衛に会い、彼が並みの船頭でないことを知り、御用船頭として択捉島へ航路を開くよう依頼しました。
高田屋嘉兵衛は、国後島の東の端、択捉島の見えるアトイヤの山に登って、国後水道を20日間観測したうえ、70石積(約10トン)の船で渡ることにしました。

もやが立ちこめる中を、はじめは北に進み、やがて東に舵をとり、無事に択捉島へ到着しました。こうして1799年(寛政11年)嘉兵衛によって、択捉島への新航路が切り開かれたのです。
択捉島(3,168km2)は、鳥取県(3,507km2)ぐらいもある大きな島で、住民は800人あまり、漁法もやすで突いてとる原始的なものでした。

嘉兵衛は、上陸して8日間調査のうえ、船着場、番所、17の漁場の予定地を定めて報告しました。そして、翌年兵庫に帰り、択捉島開発のために必要な物資を整えました。木びきや大工を雇い入れ、米、塩、なべ、かま、着物、漁網などを、辰悦丸など6そうの船に積み込みました。様似(現在の北海道様似町)で越冬していた重蔵と択捉島に戻った嘉兵衛は、住民にこれらの物資を配りました。そして、網での漁法を住民に教えたので、漁獲高が非常に増えました。

また、嘉兵衛は、彼等に塩づけや乾燥などの海産物の加工や保存の方法を教えました。そして、その製品を函館に運び、さらに、兵庫や大阪へ回送しました。この時の重蔵と嘉兵衛の働きと実績が、1855年2月7日(旧歴安政元年12月21日)に締結された日本国魯西亜国通好条約(下田条約)において、択捉島と国後島を日本領土とし、『今より後、日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし』と定める根拠のひとつとなったのでした。

エ.ゴローニン艦長

1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが、通商を求めて長崎へやってきました。しかし、鎖国政策をとっていた幕府がこれをことわると、レザノフは、部下のフォストフに樺太や択捉島の襲撃を命じました。これに対して幕府は、蝦夷地を守らせるため、ロシア船の打ち払いを決め、東北地方の諸藩に出兵を命じました。

1811年(文化8年)、ロシアの軍艦ディアナ号が、たまたま千島列島や北方領土の調査をしながら、国後沖にやってきて水や薪を求めました。国後島を守備していた藩兵は、4年前のフォストフの択捉島襲撃事件もあったので、7人の部下と上陸したゴローニン艦長を捕え、函館の牢に入れました。

軍艦に残っていた副長リコルドは、艦長が無事かどうか心配でしたが、どうすることもできないのでいったん帰国しました。

オ.嘉兵衛の抑留

翌1812年(文化9年)、艦長を奪われたディアナ号を副長リコルドが指揮して、再び国後島近海までやってきました。リコルドは、日本船を捕えてゴローニンの生死を確かめようと待っていました。

たまたま、択捉島で干魚を積んだ嘉兵衛の船が通りかかり、銃撃を受けて捕えられました。あわてた水夫の中には、海へ飛び込んで逃げる者も多く、46人中10人も、船に帰ってきませんでした。おぼれ死んだのです。
捕えられた嘉兵衛の落ち着いた様子を見て、非凡な人物だと知ったリコルドは、嘉兵衛を丁重に扱いました。

嘉兵衛は、ロシア語がわかりませんので、手まねで話すわけですが、どうやら部下5人とカムチャッカ半島のペトロパブロフスクへ連れて行かれることを知りました。
そのわずかの間に、嘉兵衛は、弟たちに手紙を書いてことづけました。その手紙は、現在、神戸市立博物館に残されていますが、それには、嘉兵衛の愛国の真心と深い人間愛があふれ、読む人に感動を与えます。

「私は、この度、運がなくなってしまったのでしょうか。外国へ連れて行かれることになりました。この上は、外国に行ってよい通訳に出会い、永年もめ続けている日本とロシアとの問題を解決するために掛け合うつもりです。何分、捕われの身であるから命は惜しくなく、多少は、お上のお考えも承知していますので、日本のために悪いようにいたしません。」

さらに、部下10名を失ったことをいたみ、病気の家族のことを頼んでいます。
ペトロパブロフスクに抑留された嘉兵衛は、当番の少女からロシア語を習い、日常の会話ができる程になりました。彼は、リコルドに対し、ロシアがフォストフの暴行について謝り、誠意を示すならば、ゴローニン艦長以下の釈放については努力しましょうと約束しました。

嘉兵衛は、厳寒のカムチャッカで冬を越し、部下2人を病気で死なせました。嘉兵衛は、抑留の疲れと栄養失調のため体は弱っていましたが、交渉のため、ディアナ号で函館に帰りました。そして、彼の努力の結果、ロシア国は謝罪文を差し出し、ゴローニン艦長は釈放され、ここに日本とロシアとの紛争は解決できました。船頭という身分で、いきなり国際紛争の舞台に立たされ、捕りょという境遇の中で、言葉もままならぬ民間人嘉兵衛が、強国ロシアと対等の外交をやってのけたのです。

(2) 兵庫県における北方領土返還要求運動

工楽松右衛門が、多くの困難に見舞われながら、択捉島の波止場を築いたり、また、高田屋嘉兵衛が苦心をして択捉島への航路を切り開き、この島の開発に努めたということは、歴史的事実として疑うものはありません。

1945年(昭和20年)8月15日、第2次世界大戦で日本は、「ポツダム宣言」を受諾し、連合国に降伏しましたが、その後ソ連(現在のロシア)軍は、千島列島を南下、8月28日には択捉島、9月1日には色丹島に、9月2日には国後島及び歯舞諸島に上陸、次々と占拠しました。

このように、ソ連は、我々日本人の先祖が開拓し、営々と守り育てた北方領土を法的根拠なく占拠しました。今こそ、この北方領土の返還を国内世論はもとより、国際世論に訴えて実現しなければ、松右衛門や嘉兵衛の努力をむだにすることと思います。兵庫県においても、1981年(昭和56年)、国が2月7日を「北方領土の日」と定めたことを受けて、翌年の2月7日、青年、婦人、福祉、農業など、県内の52団体の代表が集まり、北方領土返還運動兵庫県推進会議が発足しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還運動兵庫県推進会議
2.設立年月日
昭和57年2月7日