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(1)茨城県と北方領土のかかわり

茨城県と北方領土とのかかわりは古くから続いています。
江戸時代、水戸藩の北方に対する関心は高く、藩主の徳川光圀や斉昭の業績から、そのようすを知ることができます。
特に、光圀の命によって建造された「快風丸」による蝦夷探検は、当時の造船や航海技術からみてすばらしい偉業で、人々に感銘を与えたものです。

また、斉昭もロシアの勢力が南下するにつれて、蝦夷警備の重要性を認め、蝦夷開拓の計画を幕府に進言しています。
さらに、茨城県には北方探検家として有名な人物がおります。択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた木村謙次や樺太探検をした間宮林蔵がいます。
このように、古くから北方へ目を向けて北方への政策をおし進め、輝かしい業績を築いてきたのです。

1)茨城の生んだ北方探検家 木村謙次

木村謙次は、1752年(宝暦2年)、久慈郡天下野村(現在の常陸太田市)に生まれました。幼いころから読書に励み、16歳のときには水戸の学者立原翆軒について学問を学びました。また、かたわら谷田部東壑について医術を修めました。その後、京都や水戸藩の名医について修業を積み、多くの学者と交友を重ねているうちに政治や社会の動きにも関心を持つようになりました。

特に、農政問題の改革を論じた書物を出版したり、水府村一帯の特産である「しみこん」(注参照)や「和紙」製造の方法を教えるなど数多くの功績を残しております。

しかし、謙次の名が北方探検家として知られるようになったのは、蝦夷地の調査をするようになってからです。謙次が活躍した寛政年間のころは、外国船が日本近海によく現れ、ロシアの使節ラックスマンは1792年(寛政4年)根室に来航して通商を求めて来たのです。

その頃、水戸藩主治保と学者の立原翆軒は北方警備の重要性を考え、蝦夷地調査をすることにしました。
その調査に選ばれたのが謙次と勝倉村(現在のひたちなか市)の名主武石民蔵です。二人は1793年(寛政5年)水戸を出発し、蝦夷には約1週間滞在して、アイヌ人の生活やロシアの国情などについて聞きとりをしたり、視察したりして多くの情報を入手しています。おそらく北方警備の不十分さを指摘し、不満をいだきながら帰って来たのではないかと思われます。約1,600kmにおよぶ調査の旅でした。

また、1798年(寛政10年)幕府は蝦夷地探検を実施、その一行に近藤重蔵が加わりました。重蔵は立原翆軒に同行者を依頼し、翆軒は謙次を推薦したのです。重蔵28歳、謙次47歳のときでした。謙次にとっては2度目の体験であり、このとき、名を「下野源助」と変えて参加しました。

一行の人数は総勢80人以上、重蔵の一隊はわずか7名です。
久奈尻島(国後島)、択捉島への渡海には危険を伴うためアイヌ人を雇い、根室から出帆しました。
久奈尻島では「喜晴軒」と名づけた小屋を建て、滞在しながら島のようすを調査したりして記録に残しています。そして、久奈尻島滞在中の情景は「久奈尻島旅泊」という漢詩にも著しています。

一行は、さらに久奈尻島から択捉島に渡りました。上陸地点は択捉島南端に近いペルタルペというところです。謙次らは近くにあるタンネモイの丘、リッコフに行き、そこに謙次の筆による「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。
筆をとるに当たって謙次は手を洗い、口をすすいで身を清め、姿勢を正して心をこめて書きました。
それは、これまでの苦難に満ちた行程の中で思っていた念願がかなえられ、その喜びに感きわまるものがあったからだろうと思われます。

1799年(寛政11年)2月末、謙次は江戸に帰り、調査結果を藩主にくわしく報告しました。10か月余りかけた北方の調査は「酔古日札」という書物にまとめられています。さらに謙次は「海防再議」を著し、日本の将来を真剣に考える必要性を人々に説きました。

彼の手による書物は探検ばかりではなく、農政、漢詩、医術と多方面におよんでいます。特に、1790年(寛政2年)水戸藩主徳川治保に提出した「足民論」は、貧しい農民の生活を救済するための政策を書いたものとして広く知られています。
彼の業績は、今日においても高く評価されています。木村謙次は郷土茨城の誇る人物です。

注「しみこん」とは、冬のきびしい冷え込みを利用して、凍結、乾燥を繰り返しながら作られたコンニャク

2)間宮海峡発見に輝く北方の勇者 間宮林蔵

間宮林蔵は、1780年(安永9年)常陸国筑波郡上平柳村(現在のつくばみらい市)に生まれました。林蔵は幼いときから賢く、優れた才能を持っていたといわれています。
その後、林蔵は江戸へ上り、幕府普請役の村上島之允に仕えて測量術を学びました。
その頃、北方ではロシア人による千島列島への南下がみられ、日本の安全を心配する人々が増えてきました。
そこで、幕府は1799年(寛政11年)蝦夷警備を強化するために松平忠明に調査を命じました。その一行に村上島之允が選ばれ、林蔵も同行することになったのです。

林蔵は後に幕府役人に登用され、島之允と共に蝦夷測量に従事して久奈尻島、択捉島にも渡りました。荒涼たるきびしい自然の中で測量しなければならず、その仕事は大へん困難をともなったであろうとしのばれます。
そして、この択捉島ではロシアの軍艦が村をおそう事件がおこり、林蔵はこの事件にまきこまれました。
何の抵抗もできなかった守備兵と林蔵は歯ぎしりしてくやしがり、この事件をきっかけに北方探検への情熱を一層強めたものと思われます。

1808年(文化5年)、林蔵は松田伝十郎と北蝦夷探検を命ぜられました。北蝦夷は樺太と呼ばれ、当時、南の方しか探検されていなかったので、未知のところが多かったのです。
樺太は大陸の半島か、それとも島なのか世界の関心事になっていたのです。当時は大陸の半島と思いこんでいた人が多かったようです。林蔵と伝十郎は二手に分かれ林蔵は東岸を、伝十郎は西岸を北進しました。

林蔵は途中まで行ったのですが、波が荒く北進を断念し、西岸に転じてノテトまで行きました。
伝十郎はラッカまで行って樺太は島であると判断し、林蔵に伝えました。
しかし、林蔵は自分の目で確かめたい気持ちがつのり、幕府に再調査を願い出て、探検の許可をもらいました。

二回目の探検は、林蔵一人で宗谷から出発しました。途中、寒さや食料不足のために引き返したり、海が結氷したために前進できず、何日も待たされることがありました。
このように多くの困難にあいながら、北端にあるナニオーにたどり着いたのです。そして樺太と、大陸との間に海峡があることを発見し、世界のなぞを解いたのです。
さらに林蔵はこの海峡を自ら渡り、黒龍江下流域の視察をしたりして帰途についたのです。

約1年半にわたる樺太探検の偉業は大へん苦難に満ちたものでしたが、それを成しとげさせたものは、何といっても彼自身の不とう不屈の精神によるものであろうと思われます。
林蔵による樺太探検の調査資料は報告書にまとめられ幕府に提出されました。代表的なものとしては「東韃地方紀行」、「北蝦夷図説」などがあります。また、伊能忠敬の測量した「大日本沿海輿地全図」にも林蔵の調査資料が生かされています。

オランダ商館の医師として長崎の出島に来ていたドイツ人シーボルトは、林蔵の海峡発見を聞き、功績をたたえ世界に紹介しました。 現在、小・中・高等学校や一般に使われている地図帳にみる間宮海峡の地名は、こうして郷土茨城の誇りにもなっています。

(2)茨城県における北方領土返還要求運動

1972年(昭和47年)、同じ返還運動をすすめていた沖縄が日本復帰をすると「次は北方領土だ」と、県内の労働、青年、婦人等、諸団体の活動もさらに活発になりました。しかし、それは個々の団体が独自に行っていたもので、沖縄返還のような盛り上がりにはなりませんでした。

1981年(昭和56年)になると、団体や個人が行ってきた返還運動を、さらに盛り上げ、県民総参加の運動にしょうと、新しい組織づくりがはじまりました。
根室出身で、熱心にこの運動に取り組まれていた花形正美氏(故人)の呼びかけにより、青年、婦人、労働、商工、農・漁業などの33団体の代表発起人によって準備がすすめられ、1982年(昭和57年)2月18日に、全国で22番目の「北方領土の返還を求める茨城県民協議会」が発足したのです。

(3)北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土の返還を求める茨城県民協議会
2.設立年月日
昭和57年2月18日