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(1)石川県と北方領土のかかわり

はじめに

北方領土の総面積は、5,003km2で石川県の総面積(4,186km2)の約1.2倍の広さです。一番大きな択捉島(3,167km2)は、能登島(46.6km2)の約66倍もあります。
北方領土までの距離は近く、根室半島の納沙布岬から歯舞諸島の貝殻島や水晶島は、それぞれ3.7km、7kmしか離れていません。また、北海道東岸から国後島までは16km、択捉島までは144.5kmです。能登半島沖にある舳倉島が、輪島市の北約48kmの海上にあることと比べてみてください。

能登半島が日本海に突き出ていることから、郷土の人々は、古くから北への関心を持ち、北の人々と深い交流をもってきました。それは、函館市の志海苔館跡から出土した約50万枚の古銭の入った大瓶3個のうち、1個は室町時代前期に作られた珠洲焼の瓶であったことからもうかがえます。

1) 北前船の活躍

江戸時代前半から明治中期まで、日本海には、北前船が活躍していました。北前船というのは、大坂(現在の大阪)や瀬戸内海地方で衣料・雑貨・砂糖などを積み、日本海に回って、山陰から北陸、東北、北海道などでそれらを売りさばき、逆の航路で海産物・木材・米などを積み込み、売りさばく船のことです。

北海道や千島が開拓されると、北前船の中には、遠く北海道や千島まで航路を延ばす船が現れて来ました。北陸では、18世紀中ごろから肥料として魚肥の使用が一般的となり、その原料として北海道のにしんが北前船で運ばれて来るようになりました。

加賀市橋立は、北前船の寄港地や北前船主の出身地として、江戸時代に栄えた町ですが、この町の宮本家の文書の中に、柏屋(宮本)小三郎という船乗りが記録した1850年(嘉永3年)の日記帳が残されています。この日記帳には「山王丸」という船が、日本海を北上し、北海道の松前から宗谷海峡を回り、紋別、網走に行き、にしんやさけ、その他の海産物を積み込んだことが記録されていますが、それらの積み荷の一部は、国後島から運ばれています。

これより前、松前の豪商村山伝兵衛は、1790年(寛政2年)に樺太で最初のにしん漁場を拓きましたが、初代伝兵衛は羽咋郡志賀町の出身です。
このように、18世紀中ごろには、郷土の海の先人たちが北海道や千島へ行って、多くの海産物を取り引きしていたことがわかっています。

2) 北方領土への関心

1807年(文化4年)、ロシア人により択捉島の紗那会所が焼かれたり、利尻島で幕府の船に火がつけられたりするなどの事件がありました。これを契機に幕府は、海岸の防備に目を向け能登半島の海岸警備を加賀藩に命じ、12代藩主斉広は、馬廻組2組を編成するなどして日本海の守りに備え、その後も海防は年々強化されました。そして加賀藩の人々も、北海道や千島などの北方の情勢について深い関心を持つようになりました。

1855年(安政元年)2月に日本とロシアの間で、通好条約が結ばれ、国境が定まると、日露混住地のままの樺太や、日本領土の歯舞、色丹、国後、択捉への日本人の進出はより盛んになりましたが、幕末の混乱期のため、国をあげての開発は思うようには進みませんでした。

江戸時代が終わり、明治に入ると、士族の新天地として北方への関心が高まりました。旧加賀藩士で、明治維新後、金沢戸長もつとめた林顕三ら3名は、1873年(明治6年)に北海道や樺太の各地を訪ね、翌年「北海紀行」6巻を金沢で出版しました。この本は現在、金沢市立図書館に所蔵されていますが、彼らは、この本の中で、北方領土開拓の重要性を述べ、詳しい地図を残しています。また、千島は北海道11か国のなかの一国であり、千島の国は国後郡と択捉島の択捉、振別、紗那、蘂取の5郡から成り立つものであることを記しています。

樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太をロシア領とするかわりに、千島の全島が日本領となったのは、その2年後の1875年(明治8年)のことです。

3) 北洋漁業で活躍した人々

明治以後、主に北洋で活躍した石川県人はたくさんいます。

樺太沖のさけ・ます漁場の開拓者で、北洋漁業の先駆者と呼ばれた永野弥平(志賀町出身)、沿海州にしん漁場の先駆者であり、樺太定置網漁業水産組合連合会の初代組合長となった笹野栄吉(志賀町出身)、カムチャッカ漁場の開拓者で、日魯漁業株式会社創設者の1人である米林伊三郎(金沢市出身)、さけ・ます母船式沖取漁業の創始者といわれる平出喜三郎(加賀市出身)、択捉島さけ・ます建網漁業の創始者といわれる田端半七(加賀市出身)、樺太でにしん建網漁を行った忠谷久五郎(加賀市出身)、択捉島で初めてまぐろの定置網漁業を行った貫伝三郎(志賀町出身)、北洋水産会社を設立した西出孫左衛門(加賀市出身)、世界で初めて母船式かに工船漁業を企業化した和島貞二(内浦町出身)、択捉島でたら釣り漁業者へ米、漁具などの仕込みを行った大庭彦平(志賀町出身)などが代表的な人々です。

これらの人々のうち、平出喜三郎、和島貞二、貫伝三郎について紹介しましょう。

ア.平出喜三郎

加賀市橋立には、江戸時代後半に「橋立三人衆」と呼ばれた北前船主が活躍していました。平出喜三郎、久保彦助、西出孫左衛門のことです。

1841年(天保3年)に橋立に生まれた初代平出喜三郎は、水夫から身をおこし、北前船主にまでなった人ですが、明治維新の「函館五稜郭の戦い」で討幕軍の物資を運び、ますます富を築いて北洋の漁業経営に力を注ぎました。北の千島開拓を目指した「報効義会」というグループが1893年(明治26年)に白糠沖で遭難したとき、生き残って函館にたどりついた人々を手厚くもてなし、彼らを自分の船で択捉島に送りとどけたり、その後、衆議院議員としても活躍しました。

平出家では、橋立三人衆の1人である久保彦助の四男が養子となり、二代目平出喜三郎となりました。喜三郎は慶応義塾大学卒業後、31歳で家を継ぎ、択捉島でさけ・ます建網漁場を経営する一方、各地で公海での沖取り漁への転換を訴え、自らも1927年(昭和2年)にそれを実践しました。
その後、衆議院議員となった彼は、母船式沖取りさけ・ます漁業取締規則を制定させ、わが国のさけ・ます沖取り漁業への道を切り拓きました。

イ.和島貞二

1871年(明治4年)に内浦町小木の北前船主和島孫作の長男として貞二は生まれました。孫作は、明治初期に北前船主から根室でのこんぶ漁場経営に転身し、また、小木に梅林を拓いて梅干を製造し、北海道で売って富を築き、明治中ごろに初代の歯舞漁業組合長になった人でした。

16歳で根室の父のもとにやって来た貞二は、日露戦争後、樺太や千島に進出して、漁業を営むかたわら、かん詰工場を経営したり北千島水産会長をつとめたほか、北海道で三つの鉱山を経営するなど実業家に成長しました。1921年(大正10年)に洋上でのたらばがにかん詰製造に乗り出し、沿海州の出漁で、2,759かんのかん詰を製造しました。これが、わが国でのかに工船漁業の企業化の最初です。

しかし、2年後に持ち船が密漁海賊船の疑いでだ捕されたり、関東大震災の不況で事業は大きな痛手を受け、その再興に命がけで取り組んでいましたが、1925年(大正14年)に51歳の若さで病死しました。

ウ.貫伝三郎

富来町に生まれた貫伝三郎は、父とともに択捉島に渡り、はじめは雑貨商を営んでいました。雑貨商といっても日用雑貨品の売買だけでなく、漁業者に資材を貸し与えるとともに、漁業者の漁獲物を集荷して、函館、東京方面に売りさばいていました。

明治末期ごろに、択捉島のさけ・ます建網がまぐろの群によってしばしば破られたため、能登地方で夏の間に行われていたまぐろ定置網を試みたところ大成功をおさめました。これに刺激されて、多くの人々がまぐろ定置網を試みましたが、いずれも速い潮流のために綱が破られ、成功する人はあまりいませんでした。

伝三郎が成功したのは、諸橋村(現在の穴水町)出身の船頭が設計した大謀網が、激しい潮流にも耐える強じんなものであったからだといわれています。多い時には、一度に225kgもある黒まぐろが400本も水揚げされたうえ、択捉島のまぐろの漁期が9月で端境期であるために高値で取り引きされました。一漁期の平均水揚げ金額は、当時のお金で30万円になりました。毎年9月になると、まぐろの買付けのために、東京や青森から商人が来島し、活発な取り引きが行われ、1921年(大正10年)には、東京の相場をは握するために、私設電話が設置されたほどです。後年、伝三郎は、和歌山県の栖原角兵衛という商人と合併して角伝商店を経営し、一生を択捉島でのまぐろ綱漁に捧げました。

4) 沿岸漁民の出稼ぎ漁業

漁場経営者として北洋への進出のほかに、多くの沿岸漁民が北の海に出稼ぎに行っています。その代表的な例が、内浦町を中心としたいか釣り漁業と、内難町、高松町、七塚町などからのオホーツク海沿岸地方へのほたて貝曳き、なまこ曳きです。

いか釣り出漁は、1887年(明治20年)に内浦町小木の石切工が夏に道南地方ではじめたのが最初であるといわれています。やがて、漁船の動力化が進む中で、函館を根拠地としていか釣り漁業が盛んになりました。1935年(昭和10年)には内浦町小木の36隻、同姫の16隻の漁船が出漁しています。1955年(昭和30年)ごろから、いかの主漁場が道南より道東の方へ移動したため、北方水域の安全操業が本県漁民にとっても身近な問題となって来ました。

内灘町から北洋への出稼ぎは、1882年(明治15年)のにしん出稼ぎからはじまりましたが、やがて安定したほたて貝曳き、なまこ曳きに移りました。1913年(大正2年)には、内灘町大根布だけで乗組員3~4名の漁船が124隻出漁しており、最盛期には、内灘町全体で約600名ほどの漁民が出稼ぎに行っていたと思われます。ところが、1935年(昭和10年)ほたて貝を取り過ぎるとの理由で、出稼ぎ漁民排斥運動がおこり、その後は、漁業従事者として現地で雇われるように変わりました。

(2) 石川県における北方領土返還要求運動

石川県内の民間団体は、それぞれ独自に活発な返還要求運動を展開してきました。県では、1965年(昭和40年)6月に県議会で「北方領土返還に関する意見書」が全会一致で議決され、これを受け県内41市町村議会でも、同様の意見書が議決されました。また、政府は、1981年(昭和56年)1月6日の閣議で毎年2月7日を「北方領土の日」とすることを決定しました。同年9月には現職首相の北方領土視察が行われ、同時に、北方領土返還祈念シンボル像「四島のかけ橋」が除幕点火されるなど、北方領土返還要求運動は、国民全体の運動として大きなうねりをみせました。

このような動きの中から、個々の民間団体の運動を広く結集し、行政機関と一体になった返還要求運動を全県的に展開するために、県民会議を設立しようという気運が高まってきました。そして1981年(昭和56年)12月に青年団体、婦人団体、経済団体、産業団体、労働団体、行政機関等15団体が参加して「北方領土返還要求運動石川県民会議」が全国18番目に設立されました。会長には、県民の声を代表する立場から石川県議会議長が就任しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動石川県民会議
2.設立年月日
昭和56年12月19日