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岩手県岩手山の写真

(1)岩手県と北方領土のかかわり

1)岩手方言(南部なまり)の露日辞典

ロシアが、シベリアからカムチャッカ半島に進出し、さらに千島列島へと南下してきたのは18世紀半ばのことです。

1744年(延亨元年)11月、田名部佐井村(現在の青森県下北郡佐井村)を出航した多賀丸という船が江戸に向かう途中、嵐のために難破しました。そして、カムチャッカ半島の南にあるオネコタン(温弥古丹)島に漂着し、ロシア船に助けられました。この多賀丸には、南部藩内宮古の漁民三之助、久助、長助の3名も乗っていましたが、間もなく他の7名とともに、ロシアのヤクーツクという所に送られました。ここで一同は、ロシア正教の洗礼を受け、ロシア名も与えられました。

その後、10名のうち5名はロシア語を学び、やがてサンクトペテルブルグにある日本語学校の教師になりました。そして1754年(宝暦4年)、日本語学校がイルクーツクに移転されると、そのうちの3名(2名は死亡)も、いっしょにそこへ移されました。

それから約50年後の1792年(寛政4年)、ロシア使節のラックスマンが、わが国との通商を求めて、北海道の根室に来航しましたが、そのとき通訳としていっしょに来たイワン・トラベズニコフは、その父親が南部藩宮古村出身の水主(水夫)だったということですから、先に述べた久助か三之助、あるいは長助の息子ではなかったかといわれています。

また、ロシアでは18世紀の後半に、初めて「露日辞典」が作られましたが、この辞典は、日本語学校の教師となったもと南部藩の漁民や、その子孫たちによって作られたものでした。「露日辞典」は全部で51枚、102頁、ロシア語のアルファベット順にAからЯまであり、975語の単語を収めていますが、日本文は、ほとんどがひらがなで書かれ、しかも、“岩手の方言”まる出しといった内容のものでした。

2)先覚者と北方領土

時の幕府は、北辺の情勢を探るため、1786年(天明6年)、最上徳内らに千島の探検を命じましたが、これより少し前の1784年(天明4年)に、大原呑響(現在の一関市出身)は、蝦夷地に渡ってその事情をつぶさに調べていました。これが縁となって、1795年(寛政7年)には、当時蝦夷地を治めていた松前藩に招かれて文武の師範を務めるようになりました。呑響は、松前藩主に北方警備の大切なことを力説しましたが、聞き入れられませんでした。失望した呑響は、翌年に松前を去り、その後、幕府の老中松平定信と知り合い、1797年(寛政9年)には「北地危言」や「北地寓談」などの本を書き、北辺の大切さを説きました。

次に、蘭学者として名をあげた大槻玄沢(現在の一関市出身)も、1804年(文化元年)、ロシアの船が仙台藩の漂流民を乗せて、長崎に来航したときに、この漂流民からロシアの事情を聞いて、「環海異聞」という本を書いています。玄沢は、このほかにも「北辺探事」という本を書いて、蝦夷地全般の警備について幕府や藩に対して、意見を申し述べています。

また、玄沢の二男で朱子学者、そして蘭学者でもあった磐渓も、北方の事情を大いに心配して、すぐれた意見を述べた一人でした。磐渓は“親露排英”の立場から、日本とロシアは、むしろ仲良く交流すべきで、その方が両国のためになると主張しました。

1792年(寛政4年)、ロシア使節のラックスマンが北海道の根室に来航したことは、前にも述べましたが、幕府は、再び来航することのないよう通告して帰しました。そして蝦夷地の警備をいっそう強化する方針を固めました。
翌年の1793年(寛政5年)に、南部藩が藩兵383名を根室に派遣したのは、この幕府の方針に沿ったものでした。

一方、1799年(寛政11年)には、東蝦夷地を幕府が直接統治する直轄領としましたが、その警備には、地域的にも近い南部藩や津軽藩が、その任に当たることになりました。このように、南部藩は北方警備の任務のためにしばしば出兵をしましたが、その主な駐屯地は箱館(現在の函館)、室蘭、根室、国後島、択捉島など東蝦夷地の広い範囲にわたっていました。

3)エトロフ島事件

こうして南部藩は、東蝦夷地を警備しておりましたが、そのうちにロシア船が択捉島に上陸して、乱暴を働くという事件が起こりました。これは「エトロフ島事件」と呼ばれています。

これより先、1804年(文化元年)、ロシアの使節レザノフが日本の漂流民を送り返しながら長崎に来て、12年前に根室を訪れたラックスマンと同じように、通商を求めて来ました。幕府は、漂流民は引き取ったものの、通商については“鎖国”を理由に拒否しました。断わられたレザノフは、通商を実現させるには、実力行使しかないと考え、部下に命じて樺太の久春(旧大泊の一部)を襲わせて、乱暴しました。「エトロフ島事件」が起きたのは、1807年(文化4年)4月29日のことです。2隻の武装した船に乗ったロシア兵が、択捉島のナイホに上陸し、さらに会所(藩の事務所)のある紗那を攻めて、建物などを焼きはらいました。

択捉島には、南部・津軽の藩兵が230人ほど警備しており、南部藩では千葉祐右衛門や種市茂七郎らが藩兵を指揮していました。しかし、不意をつかれたのと、武器も不足のうえ、強力な大砲で攻撃されたので、さんざんに打ち破られてしまいました。このとき、南部藩の砲術師であった大村治五平は、負傷にもめげずにロシア兵と戦いましたが、ついに捕らえられ、ほかの5名と共にカムチャッカに連れ去られました。

治五平は、それから2か月後に釈放されて南部領に帰りましたが、後に、事件のようすを詳しく記した「私残記」を書き残しています。
この事件は、幕府や藩を大いに驚かせ、また、あわてさせました。

このため幕府は、北方の守りを固めることになり、その要請により南部藩は、箱館に342名、松前130名、砂原30名、浦河100名、厚岸130名、根室に130名、国後380名の合わせて1,242名の藩兵を派遣しました。このほか、領内の田名部浦(現在の下北半島)から大槌浦(現在の大槌町)までの海岸に、1,530名の警備兵を置き、漁師500名に鉄砲を渡して、非常の場合は応援するよう手配しました。

南部藩は、その後も北方にしきりに増兵するように命じられましたので、領内の守りが手薄になるおそれがありました。そのうえ、これに要する出費も多く、藩の財政は、たいそう苦しくなりました。そこで、幕府にその事情を訴え、エトロフ島事件の翌年には、蝦夷地警備の兵を250名に減らすことになりましたが、警備のための藩兵は、その時の情勢によって増減があり、このような状況が幕末まで続きましたので、藩の負担は大きく、財政は、いよいよ困難となりました。

4)その後の北方事情と南部藩

「エトロフ島事件」のあとも、ロシアとの紛争は、北方の各地で起こっていました。しかし、1813年(文化10年)、日本側が捕えたロシアの艦長ゴローニンと、ロシア側に捕えられた高田屋嘉兵衛との釈放交換が行われたのを機として両国の関係は、やや友好的になりました。そして、1855年(安政元年)に、日露通好条約(下田条約)が結ばれ、北方の島々については、国境をウルップ水道に決め、択捉島から南を日本の領土とすることが確認されたのです。

この頃、南部藩の警備は、箱館を中心として東蝦夷地全部の応援を兼ねるという広い範囲にわたっていました。警備の中心となる元陣屋は箱館にありましたが、これを分割して箱館谷地頭(現在の函館市谷地頭町)の北方にも置かれました。また、ペケレウチ(現在の室蘭市陣屋町)には、出張陣屋を置き、砂原、長万部には屯所も置かれました。ここで警備に当たっていた南部藩士の上山半右衛門、新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)から、箱館奉行に提出された警備の計画書によりますと、元陣屋の箱館には藩兵300名、ペケレウチに200名、砂原、長万部に各100名。そして、火砲9門が配備されており、ほかに、これらの地に藩兵を補充するため、南部領内の北郡大畑(現在の青森県むつ市)には、常に200名が待機する体制もととのえられていました。そして、1856年(安政3年)の春には、現在の室蘭の地に「南部藩陣屋」が建てられ、秋には竣工しました。その後、1867年(慶応3年)までの10数年間、警備に当たりましたが、この陣屋跡は、現在、国指定の史跡として保存されています

蝦夷地警備の費用の大部分は、各藩が分担しており、幕府から支給される分は限られていました。しかも、警備は長い期間にわたると予想されましたので、各藩は、蝦夷地一帯を分割して、それぞれの領地として与えるようにと願い出ました。幕府はこの願い出の一部を認めて、各藩に分割しましたが、南部藩には絵靹、幌別、礼文華などが与えられました。そこで藩では、100石以下の家臣や二・三男、浪人などから蝦夷地への移住者を募りましたが、十分な資金もなしに実現できるものではなく、この計画は失敗に終わりました。

やがて幕府の勢力が衰え、1867年(慶応3年)12月9日「王政復古の大号令」が発せられました。これにより天皇親政の方針が示され、維新政治へと進むことになりました。この頃、南部藩兵は箱館と室蘭を中心に、約500名ほどが駐留していました。しかし、1868年(明治元年)、戊辰戦争が起こり、戦火が奥羽地方におよんでくるとともに全員引き揚げることになったのです。

5)北洋漁業と岩手県

岩手県では、三陸地方の人々を中心に、藩政時代から今日まで、盛んに北洋漁業や、これに関係のある仕事に従事してきました

1839年(天保10年)、田鎖丹蔵(現在の大槌町出身)は、北海道尾礼部村(現在の函館市)の庄屋格(村長格)であった飯田与左衛門に招かれて、「まぐろ建網漁場」を拓きましたが、この漁場は、北海道における「まぐろ漁場」のはじまりとされています。また、閉伊郡高浜村(現在の宮古市)の駒井弥兵衛は、1849年(嘉永2年)、17歳のとき択捉島に渡り、栖原魚場で働きました。そして、1877年(明治10年)には独立して留別の「シネウシモエ漁場」を拓き、さらにその後、「枝幸漁場」やカムチャッカ半島にも進出して漁業を営みました。

小松駒次郎(現在の陸前高田市出身)は、遠洋漁業振興に力を尽くし、漁業に“科学の灯”をともした人で“潮流翁”とも呼ばれました。駒次郎はまた、わが国のラッコ、オットセイ猟業の基礎を築きあげた人としても知られています。“オットセイ王”といわれる水上助三郎(現在の大船渡市出身)は、1898年(明治31年)から北千島方面に進出して、カムチャッカのコマンドルスキー沖などでラッコ、オットセイ猟に従事しました。その後、べーリング海の新猟場も拓き、1899年(明治32年)には、樺太の東海岸にさけ・ます漁場を拓き、翌年には色古丹(色丹島斜古丹村)で漁業を営み、成功しました。これがさけ・ます漁場開拓の先例になったといわれています。

山根三右衛門(現在の宮古市出身)は、定置漁業の開拓に努力し、三陸地方では“定置の神様”とか“漁業王”といわれました。山根三右衛門は1941年(昭和16年)に漁場を北洋に求め、北海道の幌泉の沖に網を建てましたが、これがまれにみる大漁となりました。山根三右衛門の定置漁業は、1945年(昭和20年)の終戦時において、北海道幌泉沖のものを含め、36ヵ統にもおよんでいます。以上のように、岩手県は古くから北洋漁業にかかわりがありました。1907年(明治40年)に、本県から北洋漁業に従事した人の数は、北海道・千島方面に4,421人、樺太方面に2,409人、計6,830人にものぼっていました。その内訳は九戸郡2,791人、下閉伊郡1,752人、上閉伊郡115人、気仙郡57人、その他2,114人となっています。しかし、大正時代に入るとその数は減少する傾向にありました。

もともと、わが国とロシアとの間には、1907年(明治40年)に、「日露漁業協約」が結ばれており、この協約の更新、または改正の時期が、1919年(大正8年)に当たっていました。ところが、1917年(大正6年)、ロシアに革命が起こるなどの事情があり、その後の両国の交渉は円満には進展しませんでした。

外務大臣や東京市長を歴任した後藤新平(現在の奥州市出身)は、東洋が平和であるためには、日本と隣国ロシアは、友好関係を維持することが大切だと考えていました。この立場から「親善使節」として自らロシアを訪問したり、ロシアからも要人を招いたりして交流をはかりました。

1928年(昭和3年)1月に、ついに難問であった「日ソ新漁業条約」が結ばれましたが、これは、後藤新平らの懸命な橋渡しがあったからといえます。

この条約が締結されますと、漁民の北方進出は大いに活発となり、本県からも多くの人びとが働きに行くようになりました。しかし、1943年(昭和18年)ごろから、太平洋戦争が北洋にもおよんで来ましたので、操業することができなくなり、やがて終戦を迎えたのです。

(2)岩手県民会議の設立と返還運動

1945年(昭和20年)、ソ連(現在のロシア)に占拠された北方の島々から多くの人たちが北海道や内地に引き揚げてきましたが、岩手県には択捉島から16名、国後島から14名、歯舞諸島から10名、色丹島から4名の計44名の人たちが帰って来ました。

一方、1952年(昭和27年)に、北洋のさけ・ます流し網漁業が再開されましたが、1956年(昭和31年)に結ばれた「日ソ漁業条約」により、さけやますの「沖どり」が制限され、カムチャッカや千島列島周辺の漁場の一部では操業することができなくなりました。また、漁業資源の確保のため、各国とも200カイリ水域の設定を実施し、ソ連も1977年(昭和52年)に設定しました。わが国もこれに従い、それ以後は、両国の間で漁業協定を結び、出漁船の数や、漁場の取り決めをすることになりました。しかし、大幅な制限を受け、それが年々きびしさを増しています。

このような諸問題を解決するためにも、現在、ロシアが法的根拠なく占拠している北方領土は、一日も早く、わが国に返してもらうことが必要です。 こんな願いをこめて、岩手県も1979年(昭和54年)9月「北方領土返還要求運動岩手県民会議」を結成しました。この県民会議には現在、県内の主要170団体(市町村48、市町村議会43を含む)が加入しており、北方領土の早期返還実現を目ざして、活発な運動を推進しています。

(3)北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動岩手県民会議
2.設立年月日
昭和54年9月8日