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(1)香川県と北方領土のかかわり

1) 讃岐と蝦夷地(北海道)との交易

香川県の一部の塩田跡にアッケシソウ(サンゴソウ)が自生しています。アッケシソウは北海道の厚岸地方原産で寒冷地に分布し、現在、北海道と四国の瀬戸内海沿岸の一部に残っています。塩を北海道に運んだ北前船が四国に持ち帰ったものといわれています。

北前船は、17世紀に、西回り航路が整備されて、蝦夷地や本州の日本海沿岸諸港と瀬戸内海諸港を経て大阪を結んだ回船です。千石船とか弁才船ともいわれています。この船は、船の深さを浅く、幅を狭く、かわら(船底材)を短くしています。したがって、水押を長く垣立(船の両舷に柵のように立てる垣)を高く、船尾のふくらみを大きくし積載能力を高くする構造になっています。船の大きさは300~600石積みのものが多く、中には1,500石をこえるものもあります。

大阪から蝦夷地への下り荷としては、紙・塩・砂糖・綿・竹・酒・雑貨等を買い積みして日本海の沿岸地方や蝦夷地で売りさばき、上り荷として、にしん・にしんかす・木材等を積みこみました。そのとき、船のバランスをとるために船底に運びこまれた石や砂にまじって、アッケシソウの種子が運ばれたといわれていますが、だれかが種子を持ち帰ってまいたと考える人や渡り鳥が種子を運んだと説く人もいるようです。

讃岐箱浦(現在の三豊郡詫間町)で廻船業を営んでいた森家は、屋号を勝間屋と称していました。松前藩と関係をもったのは、幕末の森歓兵衛・弟徳三郎及び明治時代の庄太郎でした。特に、森歓兵衛は1834年から1835年(天保5年から6年)にかけて、松前で商売を営み讃岐と松前藩との取り引きを行っていました。その後、郷里箱浦に帰っていた歓兵衛に対して、松前藩が丸亀藩の許可を得て、「大阪蔵屋敷御取締方」になるように頼みました。彼は、最初、高齢と病気を理由に断りましたが、断りきれず、大阪に引越しその任につきました。讃岐の一地方の商家の主人が他藩の取締方に取り立てられたことは珍しいことです。

1867年(慶応3年)歓兵衛亡き後、庄太郎が1869年(明治2年)店を多度津に移し、廻船業をさかんにしました。「西南諸藩報告書」によって、北海道との移出入を表にしてみると、次のとおりになっています。

移入
1878年(明治11年)の多度津港(瀬戸内海歴史民俗資料館提供)
品目 数量 金額
にしんかす 67,575貫 11,600円
こんぶ 328貫 63円
数の子 50貫 20円
移出
1878年(明治11年)の多度津港(瀬戸内海歴史民俗資料館提供)
品目 数量 金額
砂糖 45,000斤 7,650円

2) 北海道移住

香川県からの北海道移住のはじまりは、1883年(明治16年)の春ごろからといわれています。それは、金刀比羅宮に奉献されている絵馬「北海道札幌県胆振国幌別郡開墾地略図」に記された「明治16年2月吉日」という日付から推測できます。

しかし、本格的な移住は1887年(明治20年)、かつて那珂・多度郡長を務めた三橋政之が22戸89人(76人ともいわれている。)を率いて洞爺湖の東北岸、胆振国虻田郡洞爺に入植したときからです。その前年、三橋は親戚の野田為清らに入植について詳しく調査させました。

丸亀から移住地洞爺までの道程は次のようです。1887年(明治20年)3月27日丸亀の旅館に集合。28日郡役所へ出頭、準備。29日に平辰丸で出港、兵庫で2泊、新潟丸に乗りかえ、4月6日函館着。10日矢起丸に乗りかえ、翌朝紋別(現在の伊達市)に到着。洞爺湖南岸から北東岸の目的地洞爺へ舟で荷物を運搬。一行が洞爺へ着いたのは5月10日、丸亀出発以来43日、紋別からも約1か月を要しました。一行が最初に入植したのは、現在の大原地区周辺の一の原、二の原という高地でした。残雪の中、開墾に着手したのは5月31日。洋式の犂、牛2頭、馬6頭を購入し約46ヘクタールの耕地を開き、ばれいしょ・大豆・小豆・きび・あわなどの種をまきました。しかし、不幸にも9月末の大霜で枯死。その後の2・3年間も同じような凶作にみまわれ、離村する者も相次ぎました。紋別・室蘭へ出かせぎに行かなければ生活の糧を得ることができませんでした。しかし、三橋政之を中心とする移住者は、洞爺湖畔の土地46ヘクタールの貸付許可を得て開墾。農作物は豊かになり移住者も次第に増加しました。

1920年(大正9年)洞爺村となり、1933年(昭和8年)以来、北海道庁から特別指導村に指定され、さらに、1967年(昭和42年)全国町村会長から優良町村として表彰されました。1986年(昭和61年)9月25日、洞爺村開基百年を祝う記念式典が行われました。

空知郡栗沢町は、長尾町出身で、後に衆議院議員を務めた小西和が、1893年(明治26年)未開墾地250ヘクタールの土地の払い下げを受けて開墾しました。小西和は亜麻工場を経営するなど事業を広げましたが失敗し、その後、移住した人たちによって稲作のさかんな町として発展してきました。今は地名とか小西神社に香川の名残をわずかにとどめています。

1891年(明治24年)7月、貴族院議員鈴木傳五郎・県会議員大久保諶之焏らによって北海道移住の奨励を協議する会が開かれ、官民一体の「香川県北海道移民奨励会」が結成されました。その趣旨は、香川県が面積に比して住民が多く、人口密度が次第に高くなり、県民の生活が貧困化するのを防ごうというものでした。翌年、阿野・鵜足郡(綾歌郡)の12戸の移住民が十勝国(蝶多・止若・幕別等)に入植しましたが、洞爺村と同じく無願開墾地であったため、苦心の末、許可を得て、次第に成功しました。また、洞爺湖北方の羊蹄山ろくに旧丸亀藩主の開墾した京極農場もありました。

また、1890年(明治23年)屯田兵を士族に限らず広く募集することになったので、県民も応募し、旭川・美唄・高志内・茶志内・南一己・北一己・西・東秩父別・納内等北海道東部から中央部にわたって入植しました。1899年(明治32年)で移住は終わり、その間の移住者数は2,005名で石川県に次ぐ第2位を占めていました。

3) 香川県の北洋漁業

ア.戦前の出漁

香川県の漁民が北海道のさけ・ます流し網漁業にはじめて出漁したのは1930年(昭和5年)ごろで、津田町の金山庄平でした。次いで、1932年(昭和7年)、県下で7隻の漁船が出漁しましたが、そのころの船はいずれも12~13トンの小型船で、歯舞群島を根拠地にして東は色丹島までせいぜい30カイリの沖合で操業していました。この時の出漁者が帰郷後、香川県さけ・ます出漁組合をつくり、本部を津田町漁業組合におきました。それ以後、組合員は増加し、発展の一途をたどりましたが、1937年(昭和12年)に日中戦争がおこり、1939年(昭和14年)中止しました。

イ.戦後の出漁

1946年(昭和21年)になって、高雄万吉は個人経営で歯舞群島海域を中心にさけ・ます漁業の再開を図りました。1948年(昭和23年)には、金山庄平・和田一海らが相次いで出漁し、その他にも参加するものが増加するにつれ、香川県さんま組合はそれらを援助しました。翌年さんま組合と香川県がタイアップしてさけ・ます漁場の拡張に努めた結果、漁船数も56隻を数えるまでになりました。1950年(昭和25年)、はじめて70カイリの沖合に出て操業するようになり、漁獲高も増加しました。

1951年(昭和26年)、香川・岡山・和歌山3県の同業者を集め、関西さけ・ます漁業者組合を結成しました。しかし、岡山・和歌山両県が脱退したため、同組合は1955年(昭和30年)に解散し、香川県さんま組合がこれを吸収し、名称を香川県さんま・さけ・ます漁業協同組合と改めました。1959年(昭和34年)、無線電話施設津田漁業用海岸局も設置されました。

1955年(昭和30年)6月、北洋漁業で遭難する事故がありましたが、進取の気に富む香川県人は出漁を続けました。1956年(昭和31年)ころは、北洋母船式漁業として報国水産株式会社に5隻が所属、中部千島北緯48度以南流し綱漁船として21隻が出漁していました。

ところが、日ソ漁業条約・漁業協定により漁獲制限が行われ、減船しなければならなくなりました。中型さけ・ます漁船は1962年(昭和37年)から16隻に、1974年(昭和49年)には15隻、1976年(昭和51年)には14隻、1977年(昭和52年)には11隻、1978年(昭和53年)には8隻、1986年(昭和61年)からは5隻に減船して操業しています。母船式さけ・ます漁業は1978年(昭和53年)には1隻だけの操業になりましたが、1986年(昭和61年)には、とうとう無くなってしまいました。

(2) 香川県における北方領土返還要求運動

わが国固有の領土である歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島の返還促進について、県民意識の高揚を図ることを目的として、1985年(昭和60年)2月7日、香川県北方領土返還促進協議会が結成されました。

この協議会は、北方領土問題対策協会香川県推進委員と青年、婦人、商工団体の代表が中心となって、民間レベルで結成されたものです。結成当初は13団体でしたが、1986年(昭和61年)には、24団体、1987年(昭和62年)には、29団体と次第に増えています。協議会では、更に各種団体へ働きかけ、組織の拡充を図っています。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
香川県北方領土返還促進協議会
2.設立年月日
昭和60年2月7日