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(1)鹿児島県と北方領土のかかわり

鹿児島と北方領土は、南と北に遠く離れていますが、江戸時代から非常に深い歴史的かかわりを持っています。

1) 江戸時代の薩摩藩と北方領土

ア.北の恵みに依存する薩摩藩

江戸時代のわが国は、外国との窓口を四つ持っていました。長崎口(中国、オランダ)、対馬口(朝鮮)、松前口(樺太、沿海州)、琉球口(中国)です。このうち、鎖国のもとでも、薩摩藩だけが、琉球口を通じて中国と貿易を行い、財政の大きな支えとしていました。中国からの輸入品は薬品が主で、これは、日本国内では、貴重品でした。一方輸出品は、ほとんどが北方の海産物でした。俵物といわれるふかひれ、干あわび、いりこなどのほか、特に重要な商品が北海道産のこんぶでした。中国では、風土病の予防や日常の野菜のかわりとしてこんぶを大量に必要としていました。しかも根室や択捉あたりでしかとれない長こんぶがもっとも好まれました。

したがって、こんぶは、奄美の黒砂糖と並ぶ薩摩藩のドル箱商品であり、明治維新の際の軍資金もこんぶ取り引きのもたらす利益から得られたといってもよいでしょう。
薩摩藩が、北方に強い関心を寄せたのは、貿易を維持するために当然のことでした。
こうして薩摩の産品や中国からの輸入品は、船で上方(現在の近畿地方)や江戸をはじめ、遠くは、東北、蝦夷地にまで運ばれていましたが、なかには、遭難して、ロシアまで漂着する船もありました。

イ.ロシアへの漂着者とロシアからの寄航者

(ア)ゴンザとソウザの働き

1728年(享保13年)秋、薩摩から大阪に向けて出航した若潮丸が、途中で嵐にあい、6か月の漂流の後カムチャツカ半島南端に漂着しました。17人の乗組員のうち15人が、ロシア人の守備隊長に殺されてしまい、生き残ったのは、12歳のゴンザ少年(権左衛門と思われる)とソウザ(惣左衛門と思われる)の2人だけでした。守備隊長は、2人を働かせるために生かしたのでした。幸い事件のことが、上級役人の耳に届き、2人は、釈放されましたが、日本語学校があるサンクトペテルブルグに送られ、日本語学校の教師となりました。ロシアは日本に毛皮を売り込みたいため日本語の教師が必要だったのです。

ソウザが1736年(元文元年)に43歳で病死したあと、ゴンザは、学校で日本語を教えながら、世界ではじめての「新露日辞典」を編さんし、1738年(元文3年)に完成させました。この辞典は、一万二千のロシア語を二百数十年前の鹿児島弁で和訳したもので、今日貴重な方言資料として高く評価されています。

1739年(元文4年)の暮れ22歳の若さで亡くなるまでゴンザは、このほか「項目別露日辞典」「日本語会話入門」「簡略日本文法」「友好会話集」「図示世界」などを編さんしました。短い期間でしたが、ゴンザは、ロシアにおける日本語研究史上不滅の業績を残しました。

ヨアナ女帝をはじめロシア人たちは、すばらしい才能を発揮したゴンザ少年の死をいたみ、また、ゴンザとソウザがロシアにつくしてくれたことをたたえ、2人の肖像画を描かせるとともに、デスマスクを作りました。

(イ)帰ってきた漂流民 喜三左衛門

1812年(文化9年)10月、江戸に米を運ぶため川内を出帆した永寿丸が、途中で嵐にあい、9か月の漂流の後、択捉島から北に12番目の島ハリムコタン島に漂着しました。島にたどりついた時は、乗組員25人中船頭の喜三左衛門らわずか3人となっていました。1815年(文化12年)6月、名古屋の漂流民とともにようやく日本に送り帰してもらうことになり、択捉島の滝が見える所まで近づきましたが、天候不良のため、上陸できず、引き返してしまいました。喜三左衛門らは、小船を借りて再び択捉に向かい、ようやく上陸できました。

択捉島の幕府の駐屯役人の取り調べの後、根室、函館を経由して江戸で薩摩藩に引き渡されました。漂流から実に4年の歳月が流れていました。
薩摩藩は、喜三左衛門らからロシアの国情、ロシア人の生活習慣や、カムチャツカ・千島列島のようすなどを細かく聞き、日本語訳つき600語のロシア語実用会話集をそえて「漂海紀聞」としてまとめました。

当時、鎖国がいっそう強化されている時代で南の薩摩藩でこのようなロシアの研究書が出されたことは、薩摩藩が北方にいかに強い関心を持っていたかを示すものです。

(ウ)ベニョフスキー奄美大島に立ち寄る

ロシア人と戦って捕虜となり、厳冬のカムチャツカに流刑されていたハンガリー人ベニョフスキーは、1771年(明和8年)にカムチャツカを脱出した後、奄美大島に寄航しました。
そのさい、大島の人に長崎のオランダ商館長宛の手紙をことづけましたが、その内容は、南下政策をとるロシアの脅威を説いたものでした。ロシアを商売がたきとみなしていたオランダ商館が、このことをことさら誇張して幕府に伝えたため、海外事情をよく知らない当時の日本人は、ロシアを非常に警戒するようになったのです。

ウ.島津斉彬の蝦夷地開発計画

薩摩藩第28代藩主島津斉彬は、わが国にはじめて近代洋式工業を取り入れた聡明で進歩的な君主です。斉彬は、いつも手元に1856年(安政3年)に江戸で作られた地球儀を置き、愛用していました。注目されるのは、南は琉球列島から北はウルップ島までの日本領が赤く塗られていることです。国後島は塗り落としたのか白くなったままです。これは、蝦夷地開発を主張していた斉彬によって塗られたのかも知れません。

貿易を拡大しようとしていた斉彬は、蝦夷地を「こんぶ・かずの子・いわし、その他発見されていない産物も多い。まさに日本の宝蔵である。」と見ており、しかも斉彬の優れている点は「南下するロシア対策は、戦力によらず日本人の開墾と入植を進めるのが一番良い。」といっていることです。

1855年(安政2年)春、蝦夷地の開拓は、非常に重要なことなので急いで行わなければならないと説き、家臣に開拓場所、物産、運輸の便、開拓の方法等具体的な調査を命じました。また、同年秋には水戸の徳川斉昭にその構想を伝えています。
斉彬は、幕府にもこの構想を進言しましたが、採用されず、また、1858年(安政5年)7月斉彬が急死したため、実現されませんでした。

エ.北の海に渡る薩摩藩の豪商

鹿児島には、豪商たちが蝦夷地と交易していた事を示す遺品が残っています。坊津町秋目の宮内家には、蝦夷語辞典(1854年刊)があり、また、阿久根市の河南家には、慶応年間(1865年~1867年)に模写した色鮮やかな世界地図があります。これを見ると、蝦夷地に引き続き千島列島が同じ色で描かれ、また、各島が名前入りでくわしく記されています。いずれも薩摩藩の豪商たちが、東北、蝦夷地へ出かけていたことを物語るものです。

2) 明治以降の鹿児島県と北方領土

ア.北海道開拓につくした鹿児島の人たち

(ア)開拓使長官 黒田清隆

鹿児島市出身の黒田清隆は、明治初期に北海道開拓使長官として、クラークを招いて札幌農学校を設けるなどアメリカ式の新しい農業の導入や、屯田兵制度の導入などいろいろな政策を次々実行し、北海道の開拓に尽力しました。なかでも北海道の守りと開拓を目的とする屯田兵制度は、薩摩藩の郷士制度(多くの武士が農耕しながら各地域を守る制度)を模範にして、西郷隆盛が構想し、黒田清隆が実行したものといわれています。この制度で1875年(明治8年)から1898年(明治31年)まで、7,300戸余り、4万人近い人たちが北海道に移住し、7万5千ヘクタールの原野を開拓しました。

黒田清隆の考えに基づき、1875年(明治8年)5月、日本とロシアの間で、樺太・千島交換条約が締結されました。これにより日本は、樺太を放棄するかわりに北海道と千島の開発に専念できるようになりました。
また、黒田清隆は、ウラジオストク方面で見本市を開催して北海道の産品を販売したり、ロシアから馬ぞりやロシア式馬車、ペチカ、丸太積み建築様式などロシアの産業、文化の導入に努めました。この功によりロシア皇帝から勲章を授与されています。

(イ)その他開拓に尽力した役人や民間人たち

黒田清隆のほかにも多くの鹿児島の人たちが北海道の開発に活躍しています。政府関係者では「屯田兵の父」と仰がれるほど北海道の守りと開拓に一生をささげた永山武四郎、黒田清隆の樺太放棄構想に反対した永山弥一郎、国後、択捉島をふくむ北海道東部の道路建設に尽力した永山在兼、札幌農学校の開設に尽力し初代校長になった調所広丈、初代根室県令の湯地定基、初代函館県令の時任為基、農商務省北海道事業管理局長の安田貞則等数多くいます。民間人では、北海道一の豪雪地帯といわれる幌加内村(現在の幌加内町)で鉄道敷設に活躍した吉利智弘、薩摩藩英国留学生の一人で北海道でのビール製造の礎を築いた村橋久成、北海道の炭鉱産業の発展に寄与した堀基や園田実徳等がいます。

農商務省の次官であった前田正名は、釧路で製紙業をはじめ、わずか2年で失敗しましたが、これは、貴重な試みでした。なお、阿寒湖畔にあった前田所有の山林約3,800ヘクタールを基礎に「前田一歩園財団」が設立され、今でも阿寒湖畔の自然を後世に残すことに役立っています。

1898年(明治31年)にはじまった島津公爵による開墾地は、上富良野町の500ヘクタールと長沼の500ヘクタールにおよび、1936年(昭和11年)に自作農を創設するため、美田が小作人に開放されました。
富良野町の人たちは、これを旧島津農場と呼び、また島津神社に島津家をまつって今でも感謝しています。

『カインの末裔』で知られる小説家有島武郎は、川内市出身の父武がのこした狩太村(現在のニセコ町)の開墾農場他併せて450ヘクタールの有島農園を1922年(大正11年)に小作人に無償で開放し、理想の農園建設を目指しました。

加世田市生まれの松山丈之助は、松音知(現在の中頓別町の一地区)に加世田村をつくろうとして、1,800ヘクタールの原野の開墾地に加世田から青年たちを多く呼び寄せました。砂金事業で得た収益で学校、神社、鉄道等を建設しました。
そのほか、鹿児島の多くの農民や漁民が北海道の開拓に従事し活躍しました。

イ.日ソ外交に携わった鹿児島の外交官たち

鹿児島県は、ロシア・ソ連との外交で有名な外交官を数多く出しています。
西徳二郎は、1870年(明治3年)にロシアに留学した後、特命全権大使や歴代内閣の外相を務め、朝鮮半島のロシアの権益をおさえようとする「西・ローゼン協定」を締結するなど対ロシア外交につくし、ロシア通の第一人者といわれました。

東郷茂徳は「国際信義、条約の神聖、平和的紛争処理」を信条とした外交官で、駐ソ大使のときに「日ソ中立条約」の締結に努めました。また、ポツダム宣言を受諾して平和日本再生のきっかけをつくった外相でもありました。
戦前駐ソ公使、戦後駐英大使を務めた西春彦は、引退後に「北方領土は国際法上でも日本の領土である。」と内外に強く訴えました。

ウ.経済・学術・文化を通じてロシア・ソ連と交流のあった人たち

鹿児島県には、開拓使や開拓者、外交官の他にロシア・ソ連とのつながりのある人たちが数多くいます。
松方正義を父に持ち、欧州美術品を収集して「松方コレクション」で有名な松方幸次郎は、1933年(昭和8年)、米英資本の独占下にあった日本の石油市場にソ連の石油を輸入して、日本の石油市場に活気をもたらしました。

奄美出身の昇曙夢は、1903年(明治36年)ニコライ正教神学校を卒業し、ニコライ露語学院長を務めた人で、数十冊におよぶロシア文学に関する翻訳・著書があり、わが国のロシア文学研究の先がけとなった人です。1928年(昭和3年)には、トルストイ生誕百年祭に国賓として招待されています。
昇曙夢は、また、戦後アメリカの占領下にあった故郷奄美の日本復帰運動の復帰対策全国委員長としても大活躍した人です。彼の著書『大奄美史』は、占領下の奄美の人々の心の支えになりました。

鹿児島県出身の鉄道大臣山之内一次の子、山之内一郎は、スターリン憲法の研究者として知られています。また、戦後日ソ親善協会の理事として日ソ交流の架け橋となりました。
阿久根市生まれの郡山良光は、1972年(昭和47年)にソ連科学アカデミーの招待で留学するなど、日露交渉史の研究で有名でした。彼は、また「北方領土問題の歴史と背景」と題して県内で講演したり、北方領土問題に積極的に取り組んだ人です。著書に『幕末日露関係史研究』があります。

3) その他のかかわり

今まで述べてきた他にも深い歴史的関係があります。たとえば、東郷平八郎は、日露戦争での活躍で「アドミラルトウゴウ」として世界的に名が知られています。

ロシア皇太子ニコライ二世が鹿児島訪問後の滋賀県で暴漢に襲われたとき治療した医者が旧薩摩藩出身で日本最初の医学博士の高木兼寛でした。このほか、ロシアの情報研究家であった花田仲之介や町田経宇の話など数え上げればきりがないほどです。第2次世界大戦で極寒のシベリアの土となったり、苛酷な抑留生活を強いられたりした鹿児島県人も多くいたのです。

現在でも、北洋産の海産物がいろいろな製品となってわたしたちの食生活に入ってきています。
しかし、北方領土問題が未解決であるため、その原料を獲得するための北洋漁業は、大きな制約を受けているのが現状です。
北方四島の海産物をはじめとする豊富な資源をわたしたちの生活に役立たせるためにも、北方領土の一日も早い返還が待たれています。

(2) 鹿児島県における北方領土返還要求運動

鹿児島県では、県議会で1972年(昭和47年)9月4日「北方領土復帰促進に関する要望意見書」ならびに1980年(昭和55年)3月26日「北方領土の返還要求促進に関する意見書」を採択し、政府に対して提出するなど、県民いちがんとなって返還要求運動を推進してきました。

このような県民の返還要求運動の高まりをさらに発展させようと、1982年(昭和57年)、青年団、婦人会等が発起人となり、県内諸団体に呼びかけ、同年11月13日県民会議が誕生しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動鹿児島県民会議
2.設立年月日
昭和57年11月13日