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(1)熊本県と北方領土のかかわり

1) 北方領土と熊本県人

ア.北方開発に力をつくした安場保和

安場保和(1835年~1900年)は、熊本市で生まれ、9歳の時藩校時習館に入り、18歳の時、師である横井小楠(幕末から維新にかけ活躍した熊本県出身の政治家・思想家)から「安場は将来必ず天下のために名をなす人物である」とほめられ、横井門下の四天王の一人として注目されていました。
その言葉通り、明治新政府のもとで、岩倉具視遣欧使節団の一員となったり、福島、福岡、愛知などの県令(現在の知事)や元老院議官、のちには貴族院議員として活躍しました。

特に、北方地域に関心を持ち元老院議官時代に北方視察に出かけています。根室から千島列島を北上して、シュムシュ島まで行き、帰りには国後島や根室から、陸路北海道の内陸部を調査し「千島警備及び北海道開拓に対する意見書」としてまとめ、当時参議であった伊藤博文に北方の重要性を説いています。その後、1897年(明治30年)北海道庁長官に任じられるなど、一生を通じて北方の開発に心をくだいた人です。

イ.日本の立場を主張した園田外相

1977年(昭和52年)2月、ソ連(現在のロシア)が北方四島水域を一方的にソ連水域としたことに対し、熊本県天草出身で当時内閣官房長官であった園田直は、これは許されないことでわが国としては認められないとして抗議し、同年4月に総理特使としてモスクワを訪れました。その後、外務大臣となり、1978年(昭和53年)1月、日ソ平和条約締結交渉のため再びモスクワを訪れ、「北方四島の一括返還を実現して平和条約を締結する」と強く呼びかけ、北方領土の問題に対し、日本の立場を主張しました。

2) 北海道開拓との関わり

ア.さきがけとなった天草開拓団

1871年(明治4年)6月、天草から21戸の人々が北海道に移住したことが、1894年(明治27年)の九州日日新聞に紹介されています。

それによると、北海道庁役人の松尾万喜という人が日高郡を巡回中、浦河郡幌別川の両岸に天草の移住地があり、調査してみると24年前に移り住んだことがわかりました。しかも、今ではこの地を立派に開拓し人口も増え西舎、杵臼という村まででき、生活も豊かになっていることはすばらしいことであり、肥後人の北海道移住のさきがけをなすものであると称賛しています。

移住当時は、人家も道路もなく広々とした荒れ地で、住居を作って開墾に着手するのも相当の苦労が必要でした。特に、冬の寒さのきびしさは、暖かい天草から来た人々にとっては、耐えられないほどつらいことでした。
夏になると、蚊やあぶやぶよなどの虫に苦しめられ、夜はキツネが家の中に入り大切な食べ物を食い荒らすこともしばしばあり、クマやオオカミもいるので油断がなりませんでした。

こうしたことが続いたので、逃げて帰りたいという声が多くなってきましたが、総代の本巣甚三郎という人が、故郷を出る時の決心を思い起こさせ「これ位の試練に屈してはならない」と一同をさとし、自らも朝早くから夕方遅くまで一生懸命働いて模範を示し、他の人々もこれに負けじと一致団結して働いたので、20数年でみちがえるような立派な田畑の連なる豊かな村となりました。はじめ移住21戸93人であったのが、35戸220人となり、馬を飼い西洋農具を取り入れ、各戸10ha以上の耕地を持ち、収穫も多く豊かな生活ぶりであったと紹介しています。現在日高振興局の浦河郡浦河町西舎、上杵臼となっています。

イ.屯田兵と熊本県

北方の守りと開拓のため、明治政府は北海道の開拓に力をいれることにし、兵農一致の開拓様式である屯田兵の募集を1875年(明治8年)よりはじめました。
1885年(明治18年)5月の東京日日新聞によれば、屯田兵志願は全国で少ない県で800人、多い県で3,000人とあり、合格するのはなかなかむずかしかったようです。

熊本県からは、約200戸の屯田兵家族があったということで1戸につき約5haの土地が支給され、原生林や荒野を開拓し鍬をふるって耕作しました。
屯田兵制度は1904年(明治37年)廃止されましたが、北海道の開拓と北方の守りとして大きな貢献をしました。

ウ.開拓村―熊本部落の誕生

1891年(明治24年)熊本では、佐々友房(済々黌高校創始者)、井上毅(明治憲法起草者)、合志林蔵などの人々が力を入れて、北海道への120人の移住組合を作りましたが実現しませんでした。
しかし、これにより2年後松平熊本県知事が、せまい熊本より広大な北海道にこそ活動舞台があると、移民奨励を行い、合志林蔵にしばしば北海道を視察させ佐々友房も協力しました。

1894年(明治27年)春、県下各地より応募した約200人の熊本県人が、雪まだ残る北海道夕張山地の麓に入植しました。
果てしなく広がる原生林や熊笹や草のおい茂る未踏の地で、きびしい寒さや幾多の困難と戦いながら開墾していきました。

1894年(明治27年)3月から1896年(明治29年)7月までに、熊本からの移民は124戸340人を数えるようになり、1898年(明治31年)には小学校が開設されました。
当時、石狩国由仁村といい、現在、千歳空港から北東へ車で約30分の空知総合振興局夕張郡由仁町となっています。

3) 熊本県立水産高等学校の北洋漁業実習

天草郡苓北町にある県立水産高等学校では、実習船第一熊本丸と第二熊本丸(いずれも99.5トン)の2隻が就航3年目の1963年(昭和38年)から、さけ・ます漁実習と水産庁の依頼を受け北西太平洋、オホーツク海の調査に参加しました。
1973年(昭和48年)には熊本丸Ⅱ世号(295トン)が北洋さけ・ます漁業調査船として建造され、本格的に活躍しました。

1977年(昭和52年)200カイリ経済水域の問題が解決されないまま一方的にソ連は実施に入り、北洋漁業はきびしい状況におかれました。その中にあって、熊本丸は水産庁の委託調査船としてアリューシャン列島の南方水域をはじめ、ベーリング海でのさけ・ます資源調査やイルカやカモメなどの実態調査なども行いました。
なお、熊本丸Ⅱ世号は1985年(昭和60年)中国の上海水産大学に譲渡され、今なお活躍しています。

(2) 熊本県における北方領土返還要求運動

熊本県においては、1951年(昭和26年)サンフランシスコ平和条約締結頃から、北方領土返還を訴える声が上がり、呼びかけ、講演会、街頭宣伝等による啓もう活動が行われ、昭和40年代に入ると、その声が次第に大きくなり、県民の盛り上がりによって、1969年(昭和44年)12月、県議会で「北方領土返還要求の決議」を行って、政府に強く要望しました。

国会では1973年(昭和48年)「北方領土返還に関する決議案」が満場一致で採択されました。それを契機に県民の意識も高まり、多くの民間団体によってこの問題を訴え、広く一般の啓もうをはかるため、北方領土展やマスコミによる宣伝、啓発キャラバン、講演会、署名活動、宣伝カーなどにより、呼びかけが行われました。

1972年(昭和47年)5月、沖縄が復帰しましたが、北方領土の問題については、遠く離れているためか、一般の関心は沖縄に比べると今一歩の感じでした。
1980年(昭和55年)3月には、県議会において「北方領土返還に関する決議」を行いました。
翌年1月6日、閣議決定された「北方領土の日」の設定を受けて本県では、この日を期して「熊本県北方領土対策協会」が発足し、同協会が中心となって、青年団、婦人会をはじめ多くの民間団体を含めて、2月7日県民会議設立の発起人会が開かれ、5月12日「県民会議」が設立されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
熊本県北方領土対策協会
2.設立年月日
昭和56年2月7日