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およそ千年の間、都であった京都に、かっての朝廷をしのぶ京都御所があります。その正殿である紫宸殿の前庭に「左近の桜、右近の橘」が昔の姿のままに見ることができます。

左近の桜とは、紫宸殿南面の階下東側に植えてある桜のことで、朝廷の儀式のとき、天皇を警護する左近衛府の官人たちが、この桜の位置から南に整列しました。右近の橘は、同じように西側にあって、そこから右近衛府の官人たちが整列したものです。桜も橘も、このように官人たちの先頭に位置する大切な役割をもたされていたばかりか、ふだんは紫宸殿の前庭をかざる木として、天皇や官人たちが、その花をながめて楽しみ、歌によむこともありました。

日本人は、今も昔も変わらず桜の美しさに心をなごませ、季節のよろこびを感じています。左近の桜のように、桜は、昔から日本人のあこがれであり、心を託する花といえましょう。

幕末の頃、その京都御所では、維新の夜明けを前にして公卿たちが議論をたたかわせました。ロシアの軍艦が北方の海に出没してわが国をおびやかし、ペリーの黒船が浦賀へ来航して人々は驚き、時代は大きな曲がり角にさしかかっていたのです。京都御所で新しい時代のことを話し合っていた若い公卿の一人、東久世通禧は、明治維新のあと、北海道開拓使長官として北海道開拓の基礎をつくり、北方領土の安全に力をつくしました。

その北方領土の歯舞、色丹、国後、択捉の桜に心を寄せる京都の人がいます。桜は千島桜といい、寒冷にもめげず、花を開きます。日本の桜を守ることに情熱をそそぐ佐野藤右衛門親子三代は、北海道の桜を調べ歩き、その千島桜を守り伝えようと心をくだいています。ここでは、北方領土にかかわりをもつこれらの人たちを取り上げました。

京都金閣寺の写真

(1)京都と北方領土のかかわり

1) 東久世通禧

ア.時代祭の行列で

毎年10月22日は、葵祭、祗園祭と並ぶ京都三大祭のひとつ、時代祭が行われます。平安時代から明治維新までの歴史的人物や各時代の風俗にふんした行列が、京都御所を出発して、はなやかな時代風俗絵巻を都大路にくり広げながら平安神宮へと向かうものです。

行列の先頭は、官軍の錦旗をかかげて笛と太鼓を吹きならしながら行進する維新勤皇隊列で、そのあとに幕末志士列が続きます。桂小五郎(木戸孝允)、西郷吉之助(西郷隆盛)、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など維新で働いた人たちのあとに、蓑と傘、指袴姿の三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉の7人が行きます。指袴姿なので旅をするときの公卿風俗だということが分かります。

この人たちは、幕末維新の動乱で有名な七卿落ちの姿なのです。七卿落ちというのは、1863年(文久3年)8月18日、京都御所での政変で討幕計画に敗れた三条実美や東久世通禧ら尊王攘夷派の7人の公卿が、再起を図るために、ひとまず京都を離れて長州(現在の山口県)に退いた事件のことです。

その七卿の1人、東久世通禧が、のちに2代目の北海道開拓使長官を務めた人です。
通禧は、1833年(天保4年)11月22日、京都で生まれました。東久世家の祖は通廉といい、それから数えて7代目の子孫である通徳の長男です。幼名を保麿といい、10歳のときから「童形」として御所に入り、2歳年上の皇太子統仁親王につかえて、遊びのお相手から学問や手習いのお相手を勤め、朝から晩まで生活をともにしました。

1846年(弘化3年)、仁孝天皇が急に亡くなられたので、統仁親王は16歳で天皇の位につかれました。孝明天皇です。通禧は、引き続き天皇のお側でつかえます。そして1849年(嘉永2年)12月、まだ16歳の若さで侍従に任命されました。
その頃、京都御所では公卿や幕府の重臣などの出入りがしだいにあわただしくなり、諸藩の大名や勤皇の志士たちの目も京都にそそがれるようになります。京都は幕末になって政治の都と化して、やがて攘夷討幕の嵐が吹き荒れるのです。

1837年(天保8年)に大坂(現在の大阪)で起きた大塩平八郎の乱は、人々を驚かせました。その頃全国的に続いた天災と飢饉は、人々を苦しめ、方々で百姓一揆が起き、幕府の財政はゆきずまって、物価騰貴のために下級武士も生活に困っていました。その一方で米の買い占めによって価格をつりあげ、利益をたくらむ商人があり、それと共謀して不当な富を得ようとする幕府の役人の行為も目にあまるものがありました。大塩平八郎は、それにいきどおりを感じて乱を起こしたのですが、大坂の半分ほどを焼け野原にしてしまうという不幸な結果に終わったのでした。しかし、このことがあってから、人々は徳川幕府の封建体制がゆらぎはじめていることを感じるようになります。

幕府の体制を立て直そうと老中水野忠邦らは天保の改革をすすめますが失敗、いっそう人々の心を幕府から遠のかせました。そのうえ1853年(嘉永6年)、ペリーの率いる4隻のアメリカ軍艦が浦賀にあらわれて幕府に開港を求めます。人々は黒船が来たと驚き、鎖国を守るか、ペリーの要求に屈して開港するか、世の中はたいへん動揺しました。翌1854年(安政元年)、ふたたびペリーは浦賀に来て、幕府はついに日米和親条約を締結、下田と箱館(現在の函館)を開港しました。このことで幕府に不満を抱く公卿や諸藩の武士たちのいきどおりが頂点に達します。

アメリカばかりでなく、ロシア使節プチャーチンも1853年(嘉永6年)3月、長崎に来て開港を求め、いったん樺太に帰って9月にふたたび軍艦で大坂湾に入り、和親条約の返事を求めました。大坂に近い京都の衝撃は大きく、京都警護の兵が集められたほどでした。

長い間の徳川幕府の支配下で、下級武士ばかりでなく公卿も生活にこまり、不満がつもっていました。朝廷は形だけのことで、政治の実権は、すべて幕府にありました。そこで、天皇親政のもとに朝廷を復活して国内をひとつにまとめ、政治を行うべきだとする尊王思想が影響をもってきました。その考えが、押し寄せる列強を武力でしりぞけようとする攘夷の考えと結びついて尊王攘夷の政治運動となって武士や急進派の公卿を巻き込んでいきます。しかし、同じ尊皇攘夷でも天皇と結ぶことで、くずれかけた徳川幕府の権力をもりかえそうとする勢力と幕府を倒そうとする勢力とに分かれて、激しく争うことになりました。天皇の近くにいる公卿たちが、どちらの側につくかによって、政治の流れが変わってきます。

幼い頃から天皇のおそばに仕えた通禧は、しだいに急進派の公卿の一人として幕末の動乱に身を投じていったのでした。

1863年(文久3年)、朝廷では国事参政及び国事寄人を任じて、国事に関する意見を聞くことになりましたが、通禧は選ばれて国事参政となり、三条実美、姉小路公知らと協力して朝廷の勢力拡大に努めました。通禧らは長州藩の急進派と結んでその年8月18日に天皇の大和行幸を予定して、それを機にいっきに天皇親政を実現しようとしました。けれど、その日の未明、公武合体派の公卿たちは、京都御所から急進派をしめ出して天皇の大和行幸を延期し、国事参政、国事寄人の制も廃止すると決めました。これが文久3年8月18日の政変です。三条実美、東久世通禧ら7人の急進派公卿は、しかたなく東山七条の妙法院に入って、翌朝、長州藩の兵に守られて京都を落ちていきました。

長州に行った通禧は、三条実美の副役を務めましたが、やがて一行が長州から太宰府に移るあいだにひそかに抜け出して長崎へ行きました。長崎で西洋事情に触れて、これからの国事に役立ちたいと考えたのでした。通禧は、長崎の薩摩藩屋敷に滞在して外国商館を訪ねたり、軍艦をみたり、洋式の軍事訓練を視察するなどして西洋の新知識の吸収に努めました。

1867年(慶応3年)10月14日、将軍慶喜の大政奉還によって徳川幕府の時代は終わり、同年12月9日、王政復古の大号令が発せられて、明治新政府が誕生しました。七卿らはゆるされて京都に帰り、新政府の重要な役職につきました。通禧も参与に任ぜられ、1868年(明治元年)、戊辰の役では軍事参謀となり、さらに議定の職、外国事務取調掛、外国事務総督、外国官副知事を歴任するかたわら、兵庫、横浜両裁判所(現在の役所のこと)総督を兼務するなど、もっぱら外務関係の要職にたずさわりました。発足したばかりの新政府が直面したのは、外国との条約交渉や外交上の難しい問題の処理でした。

この頃、神戸で備前藩士とフランス兵とが衝突を起こしたり、土佐藩士とフランス兵とが衝突した堺事件、十津川郷士がイギリス公使パークスを襲撃した事件など、国際間の紛争に発展するような外交問題が次々と起こりましたが、いずれも通禧によって解決されました。

イ.ガルトネル事件の解決

1869年(明治2年)8月26日、通禧は鍋島直正のあとを継いで、2代目の北海道開拓使長官に就任しました。幕末いらい樺太でロシアとの紛争が起こり、それを解決することは新政府の緊急な課題でした。そのために外交問題を処理してきた通禧の手腕がかわれたのでした。

当時の北海道は、榎本武揚が立てこもった箱館戦争(五稜郭の戦い)のあとだったので、戦禍を受けた住民の救済や大勢の降伏兵の処置など、戦後のあと始末がさしせまっていました。榎本軍政時代に出まわったにせ札のために引き起こされた経済の混乱も解決しなければなりません。そして、一日も早く新政府の法令を広めて社会生活を安定させることが急がれました。東久世長官の就任を前にして、新政府は北海道の施政について評議しましたが、それには、まず石狩、根室、宗谷、樺太の4つに分けた行政区のそれぞれに判官を派遣して政務をとらせること、石狩に首都を建設すること、場所請負人の制度を廃止すること、北海道の産物の取り締まりを定めること、そして樺太における日露問題を解決することなどがあげられました。

このように重要な使命をおびた通禧は、判官や200人の開拓民とともにイギリス船テール号に乗って9月25日に箱館に到着、ただちに旧箱館府庁を開拓使出張所と改めて政務に着手しました。長官の当時の日記によると、箱館の戸数は3,537戸でした。問題の樺太では、ロシアが兵力を増強して、幕末に日露の間で締結した条約を一方的に踏みにじってクシュコタンからハッコドマリなどの重要地を占領して、日本人に対して数々の乱暴を働いていました。政府は外務大丞を派遣して交渉にあたりましたが、事態は好転しませんでした。通禧は樺太問題のために新たに樺太開拓使を設置することを新政府に提案して、開拓使次官として黒田清隆が任命されました。

ところで、松前藩時代の箱館に1863年(文久3年)、プロシャの商人ガルトネルが来て貿易を営んでいましたが、七重村(現在の七飯町)付近の土地1,000ヘクタールを旧箱館府との間で99年間租借するという契約を結んで農業試験場を計画していました。これがガルトネル事件といって、当時の不慣れな日本の外交知識がわざわいした日本の外交史上に例を見ない事件でした。ガルトネルは、かねてから幕府に交渉していましたが許可が得られず、明治維新で松前藩にかわって榎本武揚が軍政をしいた好機をとらえて租借契約を結び、年来の野心をとげました。そして榎本軍が敗れると、今度はその混乱を利用して旧箱館府に対して既得権を強引に承認させ、契約書に役人の署名をさせてしまいました。このことを知った政府は驚いて通禧に解決をゆだねました。通禧はねばり強く交渉を重ねて日本政府の主張をつらぬき、ようやく賠償金を支払って1870年(明治3年)に契約書を取りもどすことに成功しました。
開拓使は、ガルトネルの農業試験場跡にただちに農家20戸を移して耕作させ、その後七重農業試験場と改めて北海道農業の発展に貢献しました。

1871年(明治4年)、通禧は札幌に開拓使本庁を移しましたが、この年の秋、侍従長に任命されて長官の職をさりました。通禧の開拓使長官としての任期は、わずか2年余にすぎなかったけれど、北海道に新政府を根づかせ、開拓の基礎づくりに果たした功績は大きなものでした。特に、1869年(明治2年)、根室に開拓使役所を置き、国後、択捉の2島を4郡に分け、択捉に開拓使出張所を開いて北方領土の開拓にあたったことは忘れてはなりません。

通禧は、侍従長のあと元老院議官、枢密院顧問官、貴族院議員などを務めて1912年(明治45年)、80歳で世を去っています。

2) 千島桜を守る人

京都市東山区の円山公園といえば、しだれ桜で有名です。その夜桜は「祗園の夜桜」といって歌によまれたり、絵に描かれたりしています。しだれ桜は京都府の花に指定されています。
円山公園ができたのは明治になってからですが、それ以前にこの場所にあった寺の桜が、寺がとりこわされたあとも咲き続け、1947年(昭和22年)になって枯れました。現在のものはその2代目の桜で、佐野藤右衛門が初代の種子から育てた桜をもとの位置に植えたものです。

佐野藤右衛門とは、京都市右京区山越中町に古くから植木・造園業を営む家で、当主は代々、藤右衛門を名乗っています。佐野家の場所は、もと右京区御室仁和寺の寺領に属していた関係で、代々、仁和寺の庭師として家業を守ってきました。現在の主人で16代を数えます。円山公園のしだれ桜の2代目を育てた人は、現在の主人の父、15代藤右衛門でした。彼は新種の桜の栽培に成功して植物学者の牧野富太郎博士(1862年~1957年)によって「佐野桜」と命名されました。代々の佐野藤右衛門は、京都の桜の名木を守り育ててきたので「桜守」といわれています。また、戦前中国に桜を植え、戦後もアメリカやイタリアなどへ桜の親善使節として渡り、桜を植えたことで名誉市民章を贈られています。

仁和寺は平安時代の創建いらい皇室にゆかりある寺です。その関係で佐野藤右衛門は、代々京都御所や桂離宮の植木もあつかっています。
佐野家の苗園では、全国のすぐれた桜の種子から育てた苗木が約110種、大切に育てられていますが、これは14代藤右衛門(1873年~1934年)が晩年に全国の桜をたずね歩いて名木の種子を集めたものです。いらい佐野家では、当主が家業を子にゆずったあとの晩年を全国の桜をたずね歩いて、その成育ぶりを調べ、すぐれた桜の種子を育てて次代に伝える仕事に情熱をそそいでいます。

14代藤右衛門が、全国の桜をたずね歩くきっかけとなったのは、西本願寺門主大谷光瑞(1876年~1948年)との親交があったからだといいます。大谷光瑞は、1902年(明治35年)と1908年(明治41年)の2回にわたり、わが国ではじめて探検隊を組織して中央アジアのシルクロードの学術調査を行い、数々の貴重な成果をあげたことで知られています。光瑞は、門主をしりぞいたあと桜を愛好して、同じ情熱をそそぐ藤右衛門をみこんで助力をおしみませんでした。全国の末寺に命じてその土地の桜を調べさせ、藤右衛門を光瑞の名代として派遣するという紹介状を書きました。

1928年(昭和3年)、14代藤右衛門は北海道へ渡って全道をめぐり桜の調査を行い、樺太へも足をのばしました。雄大な北海道や樺太の自然に咲く蝦夷山桜や千島桜は、藤右衛門の心を強くとらえました。なかでも根室の清隆寺の境内に育つ千島桜は国後島から採植したものと伝え、歯舞、色丹、国後、択捉、など北方領土に育つ桜に思いをめぐらせたものです。京都で見る花見のように千島桜を見てたのしむ人たちの光景が目に浮かぶようでした。

千島桜は、雪におさえられて育つので樹形は小さく、花も小さく白い色をしています。千島の名のとおりわが国の北方領土に自生して、その種子を渡り鳥が北海道に運んで芽ぶいています。千島桜の遠い祖先をたどるならば、ヒマラヤの原産種に行きつくといい、その北限は樺太のユージノサハリンスク(豊原)あたりだといいます。
14代藤右衛門は、1929年(昭和4年)にも北海道の調査に出かけ、根室の清隆寺から千島桜の苗木をもらいうけました。その千島桜は、いまも佐野家の苗園で育っています。

14代藤右衛門は、1934年(昭和9年)に61歳の生涯を閉じましたが、桜守にいのちを捧げたその遺志を子や孫が立派に受け継いで、いまも佐野家では全国の桜を調べ歩き、苗木を育てています。15代藤右衛門は1938年(昭和13年)に国後、択捉、樺太に渡って千島桜を調べ、苗木を収集しました。そのときの国後種の千島桜も佐野家の苗園で育っています。1981年(昭和56年)15代が86歳で亡くなったあと、16代藤右衛門も、祖父と父の遺志を継いで全国の桜行脚をはじめ、北海道にも毎年のように渡って千島桜の調査をすすめました。

(2) 京都府における北方領土返還要求運動

私たちの京都府では、1982年(昭和57年)9月3日、京都商工会議所講堂において、それまで別々に北方領土返還要求運動に取り組んでいた青年、婦人団体など13の民間団体がひとつにまとまって運動を展開する必要を話し合い、府民会議を結成しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求京都府民会議
2.設立年月日
昭和57年9月3日