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三重県は、「北海道」という地名の名付け親となった北方探検家松浦武四郎や、幕府の蝦夷調査係村上島之丞を生み出し、北海道とたいへんゆかりの深い県です。また、さきの第2次世界大戦では、歯舞諸島を守るため、三重県出身の多くの兵士たちを送り出しました。この兵士たちは、戦争が終わってから、島に住んでいた人たちと連絡を取り合い、領土返還要求運動のきっかけをつくりました。

そのほかにも、「ラッコ、オットセイ」を求めて三重県から北方の海に遠洋漁業を行っていました。

三重県赤目四十八滝渓谷の写真

(1)三重県と北方領土のかかわり

1) 三重が生んだ北方探検家松浦武四郎

三重県には、江戸時代の終わりから明治にかけて、蝦夷地(現在の北海道)や北の島々の探検や開拓に尽くした松浦武四郎がいます。

武四郎は、1818年(文政元年)伊勢の国一志郡須川村(現在の松阪市)で、武士の扱いを受けていた農家(郷士)の四男として生まれました。幼いころから、何事につけても目立つ存在で、人々は彼の将来に大きな期待を寄せていました。少年時代は、津藩の平松塾に通っていましたが、16歳のとき江戸(現在の東京)に行き、石板に文字をほる技術(てんこく)を覚えました。

子供のころから探検が好きだった武四郎は、間もなく生家に戻り、その後、10年の間に、東北から九州に分布する高い山をほとんど登りました。彼は、小さい時から足が非常に強く、人が3日間かかる行程を2日間ぐらいで歩いたそうです。

そのころ、日本の国は、倒幕運動や尊王攘夷運動などが盛んになり、世の中があわただしくなってきました。
武四郎も、日本の将来についていろいろと心配するようになりました。28歳(1845年、弘化2年)のとき、ロシアが南に向かって領土を広げてきていることを知り、蝦夷地や周辺の島々がどのようになっているかを調べるため、蝦夷地へ渡りました。それからの13年間に、6回にわたって樺太(サハリン)や北方領土及び千島列島にまで探検して、各地のくわしい地図を作ったり、旅行日誌や、原住民の風俗・習慣等の取調書を書いたりしました。この期間中、武四郎は、アイヌの人たちを大切にして親切につき合ったので、彼らから信頼され慕われていました。

また、一方では自然を愛し、動物や植物の生態を細かく観察して記録に残しました。さらに、自分の地位や名誉、財産などにこだわることなく間違っていることには、幕府の役人に対しても勇気を出して正す人でした。
しかし、武四郎は、尊王派に近い考えをもっていたため、幕府からあまり恵まれた扱いを受けませんでした。
江戸時代が終わり、明治維新を迎えました。明治政府は、武四郎を開拓判官に命じるとともに、蝦夷地の地名を彼の進言にしたがって「北海道」と呼ぶことにしました。

このように、明治政府に重く用いられた武四郎でしたが、わずか1年で自らその職を退き、好きな探検や開拓の仕事をするようになりました。
自由の身になった武四郎は、大台ヶ原(三重県・奈良県)の開拓を始めたり、70歳になって最後の富士登山をしたりしました。

そのほか、これまでの探検のまとめを「三航蝦夷日誌」「蝦夷山川地理取調書」「知床日誌」などの書物としてまとめたり、「樺太大地図」「北海道国郡全図」「千島一覧図」などの地図にあらわしたりしました。彼の手による書物や地図は、実に240種にもなりました。

こうして、武四郎は71歳でその生涯を閉じましたが、北海道の開拓や北方領土の探検にかけた彼の情熱と業績は、今も高く評価されています。
伊勢平野の中心部を流れる雲出川の右岸、旧参宮街道に沿ったところに、武四郎の生家は今も残っています。そして、貴重な文献や遺品は国のほか、当主の手によってそのいくつかが大切に保存されています。

2) 北方領土とかかわりのあったそのほかの人

そのほかにも、北方領土と三重県とのかかわりには、次のようなことがありました。
1672年(寛文12年)、松阪の人で、伊勢に出て海運業を営んでいた角屋七郎兵衛の船が、大しけにあって択捉島に流れついたことがありました。

また、1782年(天明2年)、伊勢若松の船頭大黒屋光太夫ら16人が乗る千石船が暴風雨にあって、アリューシャン列島の島に流れ着きました。光太夫ら3人は、ロシアの皇帝に召されて数年間を過ごして日本に帰り、ロシアの様子を幕府に伝えました。
伊勢市の大湊は、古くから造船業がさかんで、ここで造られた遠洋漁船が、今も北洋の漁場で活躍しています。

3) 北歯舞諸島の守備をしていた三重県の兵士たち

第2次世界大戦が終わりに近づいた1944年(昭和19年)7月、北方の守りを固めるため、三重県で編成された独立守備大隊の兵士900名余りが、北海道の根室から歯舞諸島の5つの島にわかれて派遣されました。
そのころ、それらの島々では、働き盛りの男たちが、軍隊に召集されて島を去っていきました。残された女の人や年寄りは、けんめいになって島の生活を守っていましたが、この兵士たちが来たことによって、大変元気づけられました。

ところが、島には、兵士たちを受け入れる施設がありませんでした。そこで、兵士たちは、島民の家に分宿し、島民と共に生活をしながら島の守りを固めることになりました。そのため、日常生活に欠くことのできない食糧や医療などの面で、島民と兵士が互いに助け合う深い人間関係が生まれました。

1945年(昭和20年)8月15日、第2次世界大戦は、日本の敗戦という形で終わりました。
しかし、9月2日になって、歯舞諸島にソ連(現在のロシア)軍が上陸してきました。兵士たちは、シベリアに連れて行かれ、島民は島を追われ根室市などにのがれてきました。
数年後、シベリアから帰った元兵士たちは、根室市方面に引き揚げた元島民とさっそく連絡をとり、1967年(昭和42年)8月、「三重歯舞会」を結成して、三重県における北方領土返還要求運動の先がけとなる活動を繰り広げました。

(2) 三重県における北方領土返還要求運動

歯舞諸島の守備をしていた元兵士たちは、これらの島に住んでいた人たちと連絡しながら、三重県における返還要求運動に立ち上がりました。それから、12年たった1979年(昭和54年)6月には、元兵士たちの努力が実って、全国第7番目に北方領土返還要求三重県民会議が結成されました。

1) 三重県議会の取り組み

三重県議会では、1967年(昭和42年)12月、三重歯舞会の請願を受けて、「日本固有の領土である北方領土を、すみやかに日本に復帰せしめるよう一層の努力を払われたい」との決議案を採択し、国に対して意見書を提出しました。
また、1980年(昭和55年)にも、同じように返還要求の決議をしています。

2) 北方領土返還要求三重県民会議の設立

全国民的な燃え上がりをみせた沖縄返還運動に比べて、北方領土返還要求運動は、なかなか進展しませんでしたが、1975年(昭和50年)ごろから、漁業水域200カイリを主張する問題が各国の間で起こると、北方領土や周りの海域について、日本とソ連の間で交渉が行われました。このころから、北方領土に対する国民の関心が高まり、三重県においても、県民会議結成への動きが盛んになってきました。

そして、1978年(昭和53年)、三重歯舞会が中心となって、北方領土返還要求運動について、県下の多くの青年、婦人、労働団体などと話し合いを重ね、1979年(昭和54年)6月16日、津市において、県下の団体の代表者や関係者200名余りが集まり、「北方領土返還要求三重県民会議」が結成され、以来、三重県における返還要求運動の中心となって活動しています。

3) 県民会議の活動

北方領土返還要求運動は、県民全体の理解と協力を得ながら進めていくことが大切です。そのため、県民会議の基本的な方針には、「日本固有の領土である北方領土の返還要求は、国民の正当な要求であり悲願であります。歴史的にも、地理的、国際法上からも明確な返還要求として、思想信条をこえた全国民運動として、力強く推進する必要があります。特に三重県は、北方開拓の先覚者である松浦武四郎の出身県であり、また元北方領土居住者と三重歯舞会との深いつながり等からも、県内の各種団体や個々の運動を統一し、世論を盛り上げ、早期返還を実現していくよう努めなければならない」と述べております。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求三重県民会議
2.設立年月日
昭和54年6月16日