ページの先頭です

ここからグローバルメニューです

クリックでグローバルメニューをスキップ、グローバルメニュー終了地点へ移動します。

グローバルメニューが終了しました

(1)宮城県と北方領土のかかわり

1) 仙台藩の蝦夷地警備

18世紀半ば以降、ロシアは北東アジアに盛んに進出し、シベリアからカムチャッカ半島をへて千島へと南下してきました。一方、鎖国下の日本においても、海外の新しい情勢に目を向け、わが国の前途を心配する人々がでてきました。仙台藩の医師工藤平助もそのひとりでした。1783年(天明3年)にだされた「赤蝦夷風説考」には、工藤平助の考え方が、次のように書かれています。

「蝦夷地は、金、銀、銅その他の産物に富むので、これを支配すれば大きな国益となる。また、密貿易を抑制してロシアと交易を行うことになれば、わが国の利益になるばかりでなく、長崎の唐紅毛(中国やオランダ等)との貿易もまた活発になるだろう。ロシアが蝦夷地に出没するのは、日本に金銀が多いことを知って交易したいためで、わざと漂流したようにみせかけて船を寄せるのだろう。オランダの本によると、わけもなく蝦夷地に上陸を企てて暴行に及ぶのは、カムチャッカ赤狄のえびすどもである。だから、蝦夷地北辺では大きな戦争にはなるまい。だが、カムチャッカの者どもの侵犯をなおざりにして見過ごすならば、そのうち蝦夷地はロシアの領土と化してしまうのだろう。これが国家の損失でなくてなんであろうか」

この工藤平助の考えが、時の老中田沼意次に取り入れられ、幕府は北辺情勢を探るため調査団を派遣することになり、最上徳内が1786年(天明6年)、千島探検を試みてウルップ島に達しました。その後、近藤重蔵は1798年(寛政10年)、択捉島の丹根萌に「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。一方、1792年(寛政4年)にロシア使節ラックスマンが根室に来航し、また、1804年(文化元年)には使節レザノフが長崎に漂流民を護送し、通商を求めてきました。漂流民のなかには、石巻の船、若宮丸の乗組員で11年に及ぶ異国生活を送った寒風沢の津太夫・左平、室浜の儀兵衛・太十郎の4名も含まれていました。幕府は漂流民を引取りましたが、通商については鎖国の方針を理由に拒否しました。このころからロシアの侵犯が激しくなり、1807年(文化4年)には択捉島に侵攻して紗那会所を焼き払い、また、利尻島を襲って幕府の官船に火を放ちました。

こうした事態に対応するために、幕府は奥羽4藩に対して蝦夷地警備を命じました。また、仙台藩に対しても、蝦夷地択捉、国後および箱館(現在の函館)の警備を命じました。このため、仙台藩からは翌年1月、択捉備頭日野英馬、国後備頭高野知哲が総勢1,220名とともに出発し、ついで2月、箱館備頭芝多信善は兵800余名とともに北海道に向かいました。

しかし、その後は新たな事態の展開もなかったので、同年11月までに全員帰藩しました。厚岸にある国泰寺所蔵の過去帳には、この地で病死などした26名の仙台藩関係者の名が記されています。また、1809年(文化6年)に伊達家9代藩主周宗公は、蝦夷地鎮定の記念に塩釜神社へ文化燈篭を奉納しました。この文化燈篭は鋼鉄合金製で、高さ4.8メートルと当時としては最大であり、花鳥、動物をはめこみ、精巧をきわめた、いかにも文化文政的な時代趣向を反映したものです。この奉納は、幕府の命令を受けた蝦夷地鎮定が、仙台藩としてはいかに重要な任務だったかを物語っています。

1855年(安政元年)、幕府は鎖国政策をやめ、開国することになりました。ロシアとは、択捉、ウルップ両島の間を両国の国境としたほか、樺太を両国雑居の地と定めました。このため、再びロシア勢力の南下が予想されたので、翌年、幕府は仙台、秋田、南部、津軽の諸藩に対して蝦夷地の分担警備を命じました。

仙台藩は、東蝦夷地の白老から知床岬まで一帯の地と択捉、国後の島々を持ち場とし、白老に元陣屋をおき、また、根室、厚岸、択捉、国後にそれぞれ出張陣屋を構えました。このうち、仙台藩が新しく構えたのは白老元陣屋だけで、ほかは松前藩等で使っていた建造物に手を加えて利用したものでした。元陣屋の「元」字は、根本の「本」字の意味で、各出張陣屋の中心的存在であり、総指揮者の備頭は、ここを本拠地としました。

函館市立図書館所蔵絵図をみると、大手門から百間(約330メートル)ほどへだてた遠御門わきに大きな標柱が建てられており、それに「仙臺元陣」と記されています。なお、白老元陣屋は国指定史跡になり、現在白老町が国の補助を得て復元、環境整備事業をすすめています。

この陣屋の人的な配置をみると、1859年(安政6年)の白老元陣屋の人数は120人、その他の出張陣屋には30~50人ぐらい配置されていました。

蝦夷地の勤務は、おおむね1年で春に交代することになっていましたが、詰増といって半年ないし1年間勤務、を延長する場合もありました。

さきに仙台藩では、長期にわたって警備を続けるために東蝦夷地一帯を領地として与えるよう幕府に願い出ましたが、1859年(安政6年)9月に許可されました。その領地は、現在の白老町から根室市、択捉島一帯にかけてのものでした。

新しい領地の経営をどのようにすすめていくかということについては、藩内にもいろいろな考え方がありました。第1の案は、藩士中の部屋住み身分の者、つまり二、三男を屯田兵にあてようとするもの、第2の案は、西洋人を雇い、新式の開墾を実施しようとするもの、第3の案は、外国貿易、つまり海草、魚類、毛皮を輸出し、西洋の貨物を輸入しようとするものでした。

しかし、どの案も十分な資金なしにはすぐに実行できるものではなかったので、近い将来屯田兵をおいて開墾に従事させようとする漠然とした考えのもとに、これまで通り警備が続けられました。新しい領地には、これまでの幕府役人に代わって少人数の藩士が配置されました。広尾(トカチともいう)にある土塁跡には、仙台藩の陣屋があったといい伝えられています。また、国泰寺過去帳1861年(万延2年)のところには、大虚廖廊信士 戌4月18日仙台家中板垣申三郎法名と書かれており、墓も残っています。

やがて、1868年(慶応4年)には戊辰戦争が始まり、箱館府は、松前、津軽、南部の各藩に対して東蝦夷地への出張を命じましたが、その前に元陣屋および各出張陣屋の仙台藩士は撤収を終えて帰藩しましたので、衝突はありませんでした。仙台藩の蝦夷地警備はここで終了します。

2) 北方領土と北洋漁業

宮城県は古くから北洋漁業が盛んなところで、今でもさけ・ます流し網漁業や底引き網漁業に出漁する船の数は、北海道に次いで多くなっています。この北洋の漁場の多くは、宮城県の人たちが大変な苦労をかさねて開拓したところです。なかでも、“漁業の町”といわれる宮城郡七ヶ浜町は、北洋漁業とのゆかりが深く、かつてはわが国漁業の花形といわれた北洋さけ・ます流し網漁業は、この七ヶ浜町が発祥の地といわれております。

七ヶ浜町の寺沢克巳、仁田兵一両氏の記録によれば、1931年(昭和6年)、当時すでにカムチャッカ近海で操業していた七ヶ浜町出身のかに工船の乗組員からの情報がきっかけとなり、試験操業に着手するため、七ヶ浜町の3隻が母船式さけ・ます流し網漁業の調査船(独航船)として出漁しました。この3隻は、花渕浜の花渕丸、太平丸、吉田浜の盛昇丸でした。いずれも20トンくらいの小さな漁船で、船長以下12人ずつが乗り組み、はるばるカムチャッカ半島東岸の漁場に向けて出発して行きました。

20トンクラスの漁船は、もともと地元の近い海で操業する船で、当時はもちろん木造船でした。今のような性能のよいディーゼルエンジンはなく、焼玉エンジンの50馬力で、ロランやレーダー、ジャイロ、コンパスなどの航海機器もいっさいなく、海図と星だけを頼りにする漁船でした。それが北へ北へとひた走り、5月5日に出港してから21日目に、母船の待つカムチャッカ半島近海にたどり着きました。

このころの北洋は、宮城県の沿岸漁民にとっては人跡未踏の海に等しく、そこへ特別な設備もない小さな船で乗り込むのですから大変な冒険でした。町のだれもが「カメッコさ入ってくるべ」と言い、こんな生死もわからない旅立ちは、家の跡を継ぐ長男には許されず、この冒険に参加したのは二、三男ばかりだったそうです。初めての北洋出漁でしたが、素晴らしい漁獲成績をあげて、約4か月後の8月31日、大漁旗をひるがえして全員そろって無事帰港しました。

この年は、ほかに北海道の独航船3隻が所属する1船団も初の操業を試みましたが、これが今日に至る母船式さけ・ます流し網漁業の始まりです。先駆者となった七ヶ浜町と北海道の名は、わが国漁業の歴史に輝かしい1ページを残しているのです。

1934年(昭和9年)には七ヶ浜町からの出漁船は33隻を数え、その後、北洋さけ・ます流し網漁業は年々盛んになり、出漁船も全国各地から500~600隻を数えるほどになりました。七ヶ浜町の先駆者たちは、仲間の漁船数十隻とともに、毎年出漁しました。当時は、ソ連(現在のロシア)の領海3カイリに入ることは漁業規制でできませんでしたが、それ以外の北方領土の四島はもちろん、千島列島周辺海域でも自由に操業でき、どこでもさけ・ますが群をなしていたということです。しかし、1943年(昭和18年)末には太平洋戦争が北洋にも波及したため、この漁業も中止のやむなきに至りました。

戦後・千島列島を失いましたが、1952年(昭和27年)には母船式北洋さけ・ます流し網漁業が再開されました。これを指導したのが、桃生郡鳴瀬町宮戸(現在の東松島市宮戸)出身の門馬重作氏(明治22年~昭和49年)です。その後、1956年(昭和31年)に結ばれた日ソ漁業条約で、日本漁船によるさけ・ます沖どりが制限され、命がけで開拓したカムチャッカ、北方四島及び千島列島周辺などの漁場の一部は、禁漁区になっていきました。さらに世界各国が自国の漁業資源を確保するため、200カイリ漁業水域を設定する動きの中で、1977年(昭和52年)ソ連も200カイリ水域を設定し、続いて、日本も領海12カイリから200カイリ水域の実施に踏み切り、以後、日ソ両国の漁業協定のもとに、出漁船の隻数や操業区域などが規制されることになりました。

こうして、わが国のさけ・ます流し網漁業およびソ連200カイリ水域内で操業する底引き網漁業などは、すべて大幅な操業規制をうけ、それも年々厳しさを増し、先細りの一途をたどっています。

漁業関係者たちは、北方領土返還に大きな期待をかけ、以前のように北洋漁業が盛んになることを願っています。

(2) 宮城県における北方領土返還要求運動

北洋漁場において、わが国の漁船がソ連にだ捕される事件は、戦後の1946年(昭和21年)ごろから始まり、1969~1970年(昭和44~45年)ごろには、宮城県の漁民団体と沿岸市町村が「これ以上我慢できない」と抗議に立ち上がり、県と県議会に「漁業の安全操業の確保対策」を要望することになりました。これが宮城県民会議設立のきっかけとなりました。

当時、宮城県議会も容易に意思の統一が望めないありさまでした。そこで、県議会議員団と漁業団体、沿岸市町村代表とが協議を重ねた結果、政府、国会に働きかけるとともに、世論を喚起するための団体の結成が望ましいということで意見の一致をみました。こうして1970年(昭和45年)10月25日、仙台市の宮城県民会館に関係者400余名が集まり、「北方領土返還促進並びに漁業の安全操業に関する宮城県民会議」〔昭和55年8月に「促進」を「要求」に改正、北方領土宮城県民会議と略称〕を誕生させました。そして、規約、事業計画、役員の選任などを行い、宣言と決議を採択し、全国に先駆けて運動を展開することになりました。役員は全県的に各界各層を網羅した構成となっています。

県民会議は、北方領土の返還要求と漁業の安全操業をスローガンに、県民総意の結集に向けて、①県民総決起大会、北方領土展の開催②仙台市内や主要国道に広告塔の設置促進③北方領土視察団の派遣④街頭行進、自動車パレード、キャラバン隊の派遣⑤署名運動の展開などを決めました。また、政府や国会、県・市町村議会あるいは知事会・市長会・町村会、さらには青年婦人団体、商工団体などに働きかけることを可決し、それぞれの運動展開と盛り上がりに期待しました。加えて、全国に県民会議の結成と北方領土視察などを促進するよう、総務庁ならびに北方領土問題対策協会に働きかける活動も続けてきました。このほか、わが国の総理大臣や外務大臣の訪ソ、あるいはソ連外相らの来日に際しても、そのつど運動を展開してきました。

このように、活発な活動を続けてきたにもかかわらず、ソ連は、①日ソ両国間における領土問題の否定②人道的な墓参の一方的な中止③北方水域における200カイリ水域の設置④北方領土への軍事施設の増強など、北方領土をまるで自国領土として取り扱い、そのうえ、平和条約交渉にも誠意を示しておりません。

このような情勢のもとで、国会では衆・参両院においても北方領土返還促進に関する決議が行われ、また、広く民間団体や知事会、町村会を中心に地方それぞれの団体が、1855年、伊豆の下田において日露通好条約が締結された2月7日を「北方領土の日」と定めようという決議を相次いで行いました。これを受けて、政府は昭和56年1月6日に閣議決定を行い、2月7日を「北方領土の日」と定めました。

宮城県民会議は同年2月7日、初めて県と共催により、「北方領土の日宮城県集会」を開き、各政党の代表を招くなど、真に官民一体の姿の集会を行いました。「沖縄は返った。次は北方領土」をスローガンに、各代表者から祝辞や激励のあいさつがあり、続いて、記念講演が行われ、特筆すべき大会となりました。その後、毎年2月7日に県内各地で県民集会が開かれるようになったのです。

このように、わが国固有の領土である北方領土の平和的な返還実現と漁業の安全操業を目指して、今後とも、粘り強い運動を継続していかなければなりません。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求宮城県民会議
2.設立年月日
昭和45年10月25日