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北方領土は、長野県から最も近い歯舞諸島まで、およそ1000km離れています。また、北方領土四島の面積は、約5003km2あり、長野県の約36パーセントにあたります。

長野県は、静岡県や千葉県などと違って、海から離れており、北方領土とあまり深い関係にはありませんでした。
しかし、明治になって北海道の開拓が始まると、長野県からも北海道を経て、歯舞諸島や色丹島、国後島、択捉島などの島々へ渡る人々がいたのです。

戦後、北方領土から引き揚げてきた人々が県内各地に住み、「故郷の島、北方領土よ返れ」との悲願を胸に抱いています。

長野県上高地の写真

(1)長野県と北方領土のかかわり

1) 幕末のころ

江戸時代の終りになって、国後島や択捉島などの調査探検が盛んに行われた頃は、中山道をはじめ信濃国の各街道も人々があわただしく往来する時代でした。
蝦夷地や国後、択捉などの島々の探検やロシア船の来航などのできごとは、これらの街道を往来する旅人や商人などの口から街道沿いの宿場の人々に伝えられ、広がっていったと思われます。
幕府と日露通好条約を結ぼうとして、1854年(安政元年)伊豆下田に入港したロシアの使節プチャーチンの動きなども、急を告げる国内の動きと共に人々の間に伝えられたと想像されます。

2) 北方領土へ渡った信州の人々

明治時代になって北海道の開拓が始まると、信州からも北海道へ渡る人々があり、中には、故郷信州を遠く離れ、国後や択捉などの島々に渡る人もいたのです。
その子孫の一人、Kさんが、択捉島での生活の様子を懐しそうに話してくれましたので、紹介しましょう。

Kさんの祖父は、1903年(明治36年)頃、住み慣れた故郷の村を後に、単身択捉島に渡り、紗那村に住むことになりました。間もなく、幼な子を連れた家族を呼び寄せ、他県の出身者と力を合わせて村づくりを始めました。
祖父は、紗那村に牧場を開き、駅てい用などの馬を放牧によって育て、他に木炭を焼いていました。
Kさんの父は、この紗那村で生まれました。
紗那村は、択捉島の中央部に位置していることもあって、明治から大正、昭和にかけて、営林署、警察署、裁判所、測候所、郵便局などの公共の施設が次々と建てられました。

Kさんの父は、やがて紗那郵便局で、郵便配達の仕事をすることになりました。「今日は3里(12km)、明日は6里(24km)」などと、遠くまで配達したそうです。
海岸に近い紗那川沿いには、さけやますのかん詰工場があり、本土からの出かせぎの人々が村の人々と共に働いていました。周りには、かん詰などを貯蔵する倉庫や工場で働く人々の宿舎をはじめ、さけ・ますのふ化場なども並んでいました。

(2)長野県における北方領土返還要求運動

1) 県民会議ができるまで

長野県で、北方領土返還要求運動を積極的に進めることになったのは、1977年(昭和52年)4月1日、「北方領土問題対策協会長野県推進委員会」が正式に発足した時からです。

北方領土との歴史的なかかわりが薄かったこともあって、長野県の場合、北方領土への関心度は、他県に比較して、あまり高いとは言えませんでした。
そこで同推進委員会では北方領土問題についての啓発活動と返還要求運動に力を入れることになりました。
県下各地で、北方領土に関する講演会を開催し、「スライドでみる北方領土」、映画「北を拓いた男たち」などを上映すると共に、パンフレットやステッカーなどを配布し、啓発活動に努めました。

1977年(昭和52年)9月15日から21日まで1週間、長野市内百貨店で開催された「北方領土展」には、2万7000人に及ぶ児童・生徒・一般の人々が訪れました。このことは、県の広報紙や新聞などにとりあげられ、北方領土に対する県民の理解を深めることができました。

また、次代を担う青少年に北方領土を理解してもらおうと、北方領土展が開催された時に、県下小・中学校の児童生徒から「北方領土展をみて」の作文を募集し、その入賞者が、「北方領土の現地視察」に参加しました。代表5名は、母親たちと共に根室半島に出かけ、納沙布岬に立って、自分の目で北方領土を見学しました。
このような地道な活動によって、北方領土問題についての県民の理解は少しずつ深まっていきました。

2) 県民会議の結成と運動

北方領土問題について、次第に高まってきた関心を、「北方領土返還要求運動」として、更に盛り上げるために「北方領土返還要求長野県民会議」を結成しようとする気運が、全国的な動きの中で高まってきました。
県民会議の結成については、北方領土問題対策協会長野県推進委員会の代表者を中心に準備が進められました。

やがて、新規に自治体、青年、婦人、経済界など、県下38団体の参加を得て、1982年(昭和57年)7月16日には、「北方領土問題対策協会長野県推進委員会」を改称して、「北方領土返還要求長野県民会議」とし、結成大会が開催されました。
大会では、北方領土返還要求運動を前進させるための県民各界各層の理解と協力の必要性が強調され、運動の進め方について協議し、大会宣言を採択すると共に記念講演会を行いました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求長野県民会議
2.設立年月日
昭和52年4月1日