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(1)長崎県と北方領土のかかわり

1) レザノフの長崎来航

1804年(文化元年)ロシア使節レザノフが日本との通商を求めて軍艦ナジデダ号で入港したのが、長崎と北方領土とのかかわりの初めでした。

レザノフは、11年前にラックスマンが北海道の松前で与えられた長崎入港許可証を持ってやってきたのです。彼は、ラックスマンが漂流民の光太夫らを送り返したように、津太夫ら4人の日本人を連れてきたのでした。そうして、今度こそは、きっと日本に開国を認めさせようと意気込んでいました。

しかし、幕府の鎖国の壁は厚く、ナジデダ号は3万8千の兵に囲まれ、半年以上も長崎港に釘付けされ、そのあげく開国の要求はあっさりと拒否されてしまいました。
実は、この時の日本側の対応が、その後の北方地域でのトラブルの原因になったのです。

レザノフは、帰国の途中病で死にますが、部下たちは、文化3年から4年にかけて、樺太のオフィトマリ、クシュンコタン、択捉島、利尻島などを襲い乱暴を働きました。
このため、幕府は非常な危機感を抱き、北方地域の守りを固め、樺太や千島の探検を進めました。1808年(文化5年)に間宮林蔵が、樺太とシベリア間の間宮海峡を発見したのも、このような事情のもとで行われた探検によるものでした。

2) プチャーチンの長崎来航

レザノフの来航から50年ほどたった1853年(嘉永6年)にペリーが4隻の軍艦をひきいて浦賀に来航し、日本に開国を迫りました。ところが、1か月ほどおくれてロシアの使節プチャーチンも4隻の軍艦をひきいて長崎に入港したのです。

プチャーチンもペリーと同じように、日本に通商を求めてやってきたのですが、あと一つ北方地域の国境線の決定という重大な任務が与えられていたのでした。
幕府も通商のことは、今すぐには決定できないが、国境を決めることは急がなければならないと、長崎で話し合うことにしました。

日本側の全権は、筒井肥前守政憲、川路左衛門尉聖謨など4人で、会談は1854年1月7日(嘉永6年12月20日)から長崎奉行所西役所(現在の長崎県庁)で行われました。
第1回の会談で川路は、ロシアの士官ゴローニンの著書を引用し、ウルップ島の中立と択捉島の日本領を主張し、樺太ではロシア守備隊の撤退を要求しました。

また、第2回には、樺太の国境を北緯50度にすることを主張し、ロシア側をあわてさせました。これは通訳に当っていた森山栄之助(長崎のオランダ通詞)が、ロシア軍艦に掛けてあった地図に北緯50度で国境が引かれてあるのを発見し、川路に知らせたからです。

これに対して、プチャーチンは樺太には日本人が少なく、ロシア人が多く住んでいるから認められないとか、択捉島は折半にすべきだと主張し、交渉は難航しました。
会談は6回にも及び、最後の会談でプチャーチンは、次のような条約草案を渡しました。

  1. ロシアと日本は永遠に友好関係を保つこと。
  2. 国境は、千島では択捉島、樺太ではアニワ港までを日本領土とする。
  3. 長崎、大阪、函館を開港する。

(4条以下省略)

日本側は、この条約を結ぶことは拒否しましたが、もし日本が他の国と修好通商条約を結ぶことがあったらロシアとも同じような条約を結ぶことを約束しました。ただ、国境については、択捉島は日本領土であること、樺太は、実地調査の上に決定することなどを回答し、ようやく長崎での会談は終ったのです。

こうして、2月5日(嘉永7年1月8日)ロシア艦隊は長崎を出港しました。
一度日本を離れたプチャーチンは、再び伊豆の下田に来航し条約締結の交渉を行いました。交渉は難航しましたが、翌1855年(安政元年)にようやくまとまり、日露通好条約が締結されました。

3) 北方地域問題で活躍した長崎の通詞たち

外国との話し合いで一番大切なものは言葉です。言葉が通じないと誤解が生じ、争いのもとになります。長崎には、江戸時代を通じ、多くの通訳(唐通事、オランダ通詞)がいました。

江戸時代も終わりごろになると、中国やオランダ以外の外国の船が日本近海に姿を見せるようになりました。1808年(文化5年)イギリス軍艦フェートン号が長崎港へ侵入した事件の後には、英語、フランス語などを通詞に学ばせるようになりました。また北方地域がさわがしくなるとロシア語の研究も始めました。

〔馬場為八郎・佐十郎〕

レザノフが来航したとき為八郎も通詞団の一員でした。この後、北方地域がさわがしくなると、為八郎は、この時の経験を買われて、蝦夷地御用として函館へ出張しました。為八郎の後、長崎の通詞達は交代で函館の奉行所に詰めたのです。
為八郎の弟佐十郎は、語学の天才でした。オランダ語はもちろん、英語、フランス語、ロシア語もできました。

佐十郎は、江戸で天文台方通詞となりオランダの学問書の翻訳にあたる一方、函館へ行って、当時捕えられていたゴローニンについてロシア語を研究し、辞書を作りました。また、浦賀に外国船が来航すると出向いて通訳に当りました。

〔森山栄之助(多吉郎)〕

栄之助は、プチャーチンが長崎に来航した時の日本側の主席通訳でした。栄之助は英語もできましたが、この時はオランダ語で通訳しました。その通訳ぶりは、きわだって優れていたようです。
栄之助は、日本全権団にとってなくてはならない存在でした。
その後、栄之助は日米・日露の条約交渉をはじめ、幕末のあらゆる外交交渉の主席通訳として活躍しました。

〔志賀親朋〕

親朋は、日露通好条約が結ばれた1855年(安政元年)にはまだ12歳でした。この年に浦上渕村の悟真寺(現在の長崎市稲佐)がロシア兵の休養地に指定されたことから、ロシアとのつながりが始まったのです。
親朋は、1858年(安政5年)に入港したロシア軍艦アスコリド号の士官からロシア語を本格的に学びました。その後、函館へ行き通訳として活躍しました。

1866年(慶応2年)幕府は、まだ解決していない北方地域について話し合うため使節をロシアに送りました。親朋は、通訳として同行しましたが、話し合いは不調に終わり、樺太は両国の共有というあいまいな状態に置かれたままでした。

明治になって、特命全権公使の榎本武揚がモスクワへ行き、「樺太、千島交換条約」を結び、ようやく領土問題は解決しましたが、その時親朋は、モスクワ駐在の外交官として会議に加わりました。
このように、長崎の通詞たちは、北方領土問題解決のために通訳という仕事を通して大きな役割を果たしたのです。

4) 水産業とのかかわり

本県は海岸線が長く、島々が多いことからわが国でも有数の水産県です。そこで、北方領土と本県の漁業について考えてみましょう。

本県はいか釣り漁業が盛んです。いかは本県周辺から北海道周辺まで回遊する習性があり、本県の周辺を回遊してくる頃、主に小型漁船によって自由に漁業が行われてきました。
ところが、最近は自動いか釣り機が導入されたり、他の漁業からの転換などによって、大型のいか釣り漁船が大幅に増加しました。そのためにいかの回遊を待って取っていた漁業から、いかの回遊を追って遠くまで出かけて操業するようになり、対馬や壱岐などの漁船のなかには、北の海へ出漁している漁船がたくさんいます。
漁業者は、北方領土周辺の豊かな漁場で自由に操業できる日を待ち望んでいます。

(2) 長崎県における北方領土返還要求運動

長崎県では、県内における返還運動をより盛んにするため、昭和57年3月に県民会議を結成しました。
県民会議は、地域のいろいろな団体が集まり、返還運動についての地域住民の声を集め、この運動を全国民的なものとするよう、活動を続けています。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求長崎県民会議
2.設立年月日
昭和57年3月6日