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(1)大分県と北方領土のかかわり

1) 日露通好条約と川路聖謨

1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航した1か月ばかりのち、引き続いてロシアの使節プチャーチンが、軍艦4隻をひきいて長崎にやってきました。プチャーチンには、日本との通商を開くことや、北方地域での国境の決定という重大な任務が与えられていたのです。

北方領土及び千島列島、樺太での国境の決定は、我が国にとっても、当時の情勢からゆるがせにできないことであったので、幕府は全権委員4名を任命し、長崎で話し合うことにしました。
この会談で、日本側の中心として活躍したのが、川路左衛門尉聖謨でした。彼は豊後の日田代官所の役人の子として生まれ、江戸に出て、当時は幕府の勘定奉行兼海防掛という重い職にあって活躍していました。

会談では、ロシア側は択捉島と樺太の領有を強く主張しましたが、日本側は、千島全島や樺太の南部は探検や開拓の歴史からみても我が国の領土であると主張して、会談は難航しました。川路は情況に応じて巧みに会談をリードし、第1回の会談では、ロシア海軍の軍人ゴローニンの著書を引用して、ウルップ島の中立と択捉島の日本領を提案したり、第2回の会談では、ロシアの軍艦に掛けてあったイギリス製の地図に記されていたことを利用して、樺太での国境を北緯50度にするよう主張したりして、ロシア側をあわてさせました。

会談は6回にも及びましたがまとまらず、プチャーチンはいったん長崎を出港しました。
会談を終えて、川路は江戸へ帰りましたが、その途中の宿まで日田の人々が多数見送りにやってきました。その時、広瀬淡窓がこの会談での彼の功をたたえる詩を贈っていますが、その詩の中に「越闍魯」の名がみえています。川路は日田の人々にとってのほこりであり、北方領土の問題は、当時の大分の人々にとっても関心の深いことであったと思われます。

翌年秋、プチャーチンは再び来日し、条約の締結を求めました。川路は再び全権委員として筒井肥前守政憲を補佐して伊豆の下田で会談に当たり、苦心の結果、ようやく日露通好条約を結ぶことになりました。条約では、両国の国境は択捉島とウルップ島との間とし、樺太では国境を定めずいままでどおりにしておくということになりました。
このように、この日露通好条約によって歯舞、色丹、国後、択捉の北方領土は我が国の領土であることが、両国の間で確認されたのです。

川路は今度の会談でもすぐれた手腕を発揮しましたが会談の途中伊豆を襲った地震と大津波によってロシアの軍艦ディアナ号が沈没したとき、代りの船の建造に便宜を図るなどあたたかみのある応対をして、ロシアの人々を感激させたと伝えられています。

我が国の北方領土返還要求の運動は、川路らの努力により締結されたこの日露通好条約の歴史的事実に基づいて、我が国のもともとの領土の正しい帰属を求めて行われているのです。このような意味から、北方領土問題における川路聖謨の歴史的な意味を考えてみたいものです。

2) 屯田兵と大分県

明治維新後の国際関係で、日本がまず解決しなければならなかった問題は国境の確定でした。小笠原諸島は歴史的立場から1874年(明治7年)日本領であることを宣言し、国際的にも承認されました。北方の国境は、すでに日露通好条約で、国後・択捉島は日本領、ウルップ島以北の千島列島はロシア領とし、樺太は日露雑居の地と定まっていました。

そのころ、明治政府は国家体制を整備することに追われていましたので、樺太の経営まで手がまわらず、1875年(明治8年)樺太・千島交換条約を結び、樺太を手離し千島列島全部を日本領としました。これによって北方の国境が確定しました。以後、本格的に北海道の開拓に力を入れました。その中心になったのが屯田兵です。
屯田兵制度が生まれたのは1874年(明治7年)です。北海道の開拓を家族と共に行いながら北方の警備をするもので、翌年から実施されました。

大分県から入植したのは、1888年(明治21年)の19戸が最初です。彼らは新琴似村(現在の札幌市)に入り、1戸あたり3ヘクタールの森林原野を与えられました。斧やのこぎりで原生林や荒野を開拓し、鍬をふるって耕作に励みました。1898年(明治31年)までに、南国大分から自然環境のきびしい北海道に88戸が移住し、旭川や石狩川流域の奥地を開拓しました。屯田兵制度は1904年(明治37年)廃止されましたが、北海道開拓のさきがけとなったのです。

3) 日ソ交渉と大分県

1945年(昭和20年)7月24日、連合国はポツダム宣言を発表しました。宣言は、太平洋戦争終結後の日本の領土を含む政治・経済・社会のあり方を定めたものでした。8月14日、日本政府は正式にポツダム宣言受諾を回答しました。15日、天皇は放送によって終戦を国民に発表しました。終戦処理のため東久邇宮内閣が成立し、杵築市出身の重光葵が外務大臣に任命されました。

降伏調印式は9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で行われました。重光葵が日本国を代表し、中津市出身の参謀総長梅津美治郎が軍部を代表して調印しました。このように、終戦処理には大分県の人々が関係しました。

連合国の日本占領の目的は、日本の民主化と非軍事化でした。1949年(昭和24年)には、すでにその目的を達成していました。1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約締結により、翌年ようやく独立国家となりました。講和会議には、日本から首相吉田茂を主席全権とした全権団が参加しました。その中に大分郡野津原町出身の日本銀行総裁一万田尚登がいました。彼は戦後の悪性インフレを収めた実績を高く評価され、民間代表として選ばれたのです。

この講和会議で、吉田茂は条約受諾演説をしましたが、とくに各国代表に注意を促したのは、日本の領土問題でした。千島列島および南樺太の地域が、日本の侵略によって奪取したものだとするソ連(現在のロシア)の主張に対する歴史的立場からの反論でした。

吉田茂のあと首相となった鳩山一郎は、ソ連との国交回復をめざした外交政策をとりました。国際情勢も、米ソ対立の「冷たい戦争」から「雪どけ」の時代に移っていました。日ソ交渉は1955年(昭和30年)ロンドンで始まりましたが、領土問題で対立し翌年3月休会しました。

この年7月、モスクワで日ソ交渉が再開されることになり、外相重光葵が全権委員に任命され、30日分らシェピーロフ外相との会談に入りました。
重光葵は、領土問題では正々堂々とつぎのように主張しました。ソ連は千島樺太をソ連の領有であると主張してサンフランシスコ平和条約に調印していません。したがって領土についての対ソ関係は解決していません。このような状態でソ連が国後、択捉の領有を主張することはおかしいではありませんか。

ソ連の要求する根拠はヤルタ協定によっているようですが、日本はこの協定には関係していません。しかもカイロ宣言は、日本の略奪領土は取上げるが固有の領土を取上げるとはいっていません。大西洋憲章では固有の領土を侵害しないことを明らかにしているではありませんか。ソ連が国後・択捉を力で占領していることは、日ソ国交回復の精神に反するものではありませんかと、法律的立場を強調するとともに歴史的事実から北方領土の返還を要求しました。

会談は歯舞・色丹だけを平和条約締結後返還するという伏線を残して行きづまりました。しかし重光葵とシェピーロフのモスクワ会談は、鳩山一郎とブルガーニン首相による日ソ共同宣言調印への橋渡しとなったのです。

(2) 大分県における北方領土返還要求運動

1972年(昭和47年)沖縄が復帰しましたが、北方領土の問題については、遠い本県をはじめ九州においては運動の盛り上がりも今一歩でした。
そこで、当時団体毎の運動を続けていた方々に声をかけて、設立されたのが「北方領土返還要求大分県協議会」であり、1979年(昭和54年)9月のことでした。
しかし、この協議会は一部の民間団体で構成されていましたので、全県的な運動までは広がりませんでした。

1981年(昭和56年)1月6日閣議決定された「北方領土の日」の設定を受けて本県では協議会を県民会議へ移行しようとの気運が盛り上がり、1982年(昭和57年)2月20日県庁正庁ホールで300人以上の関係者が参加し、’盛大に「北方領土返還要求大分県民会議」の設立総会が開かれたのです。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求大分県民会議
2.設立年月日
昭和57年2月20日